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【小説】アカネ


 本作は、過去に同人誌に掲載した原稿を修正したものです。
 Twitterに弾き語りをアップロードした、「youthful beautiful」をイメージして書いたお話です。 
 過去に書いてきた掌編の中では気に入っているお話です。よしなに。


 私のことなんて、誰にも分からないと思っていた。
 
 だから、誰の話も聞きたくなかったし、自分のことを話す気もなかった。 
いつの間にか、私は何かを求めて手を伸ばすということをやめてしまった。

 東向きの窓から指す、うるさいくらいの朝日から始まる世界。
 小さな箱庭みたいな部屋で、毎朝同じ動作で着替えて、同じ時間に家を出る。
 家も、学校も、全然好きになれない。どちらも自分の居場所だなんて思えないけれど、 他に行く場所を知らない。家に居る時間と、学校に居る時間と、その二つの間を移動する 隙間の時間で、私の一日はできている。

 クラスメイトは皆、知らない世界の言葉を話しているみたいに見える。

 つまらない世界と、もっとつまらない私。

 そんな日常の中で、私が何を考えているかなんて、誰にとってもどうでもいいことだ。 今日の晴れ空を、私が日記に雨だと書いたとしても、誰も気にしない。

 高校生になると、すでに「何か」になっている人もいる。
 
 そういう人は、先に据えた目標に向かって走っていたり、自分にとって居心地の良いやり方を見つけていたりして、大なり小なり、自分の人生を描き始めている。

 私は、そもそも何かになりたいのかどうかということすら、よく分からない。

 時々、世界と自分との境界が曖昧になっていくような感覚を覚える。
 手を伸ばしてまで欲しいものや、大切に保っておきたい関係なんてものは、私の人生に は無いんじゃないかと思う。

 もし本当にそうなら、どうして私は生きていられるのだろう。
 打算のような、妥協のような日々が、意味もドラマ無いまま続いている。
 
 そんな私だから、生物室で飼っている蚕の世話係を引き受けたことは、断りたい旨を述べるよりも、「わかりました」と言う方が使う言葉の数が少なかったからという程度の理由だったのだと思う。実際、生物教師が授業の終わりに、私を名指しにして打診してきたのは、たまたま目が合ったからだ。

 飼育ケースは木枠の箱と、網の蓋で出来ていて、生物室の端の日陰に置いてある。毎日、朝昼放課後に立ち寄って、飼育ケースの中に桑の葉を放る。

 蚕は一生のうちに一度しか排泄しないという。だから、世話といっても食べ尽くされて スカスカになった桑の葉の残骸を棄てて、新しい葉を入れるだけのことだ。

 蚕は鳴くことも暴れることもなく、ただひたすらに葉をかじり続ける。飼育ケースに敷き詰められた桑の葉の森の中で、食事に没頭する蚕たちを見て、彼らの世界はこの小さな木箱の中だけなんだと思った。

 彼らは、隣で同じように葉をかじり続ける同居人にすら、目もくれない。自分と桑の葉。他には何も無い。
 
 その姿は滑稽で、必死で、哀れでさえあるのに、羨ましかった。

 放課後に飼育ケースを覗くと、白い体に黒い斑点のある蚕の幼虫たちが、私を仰ぎ見る ように上体をのけ反らせて、ユラユラと揺れる。昼にケース内を埋め尽くすくらいに敷き 詰めた桑の葉は、殆どが食べ尽くされて筋だけになっている。

 蚕たちの催促を暫く眺めてから、蓋を開けてケースが満杯になるまで桑の葉を放る。

 毎日、毎日、同じことの繰り返し。

 君たちは、迷ったりしないんだね。

 私は、誰に責められたわけでもないのに、焦燥に駆られて、消耗して、空しさを持て余している。そのくせ無気力にもなりきれなくて、息苦しい。

 矛盾だらけの私。けれど、それはきっと大したことなんかじゃなくて、価値が無くて、みっともない。

 途切れない会話とか、大事に持っていたい秘密とか、変わってゆくことへの郷愁とか、そんな、むせ返りそうになるような青い春の中で、渦中の自分を冷たく見つめる無感動な自分がいる。

 いつだって抜け道を探していたのに、気が付いたら袋小路で立ち止まっていた。

 蚕たちが桑の葉を食べ進め続けるみたいに、先へ先へと歩むことに何の疑問も持っていなかったはずなのに、目の前にある「今」の後ろ側には、またうんざりするような次の 「今」が続いているだけで、それが延々と続いていくんだと予感したとき、救いのない気怠さを感じた。

 いつかは何か意味のあるものに届くと期待して、耐えがたい今を乗り越えても、その先にまた息苦しくて居心地の悪い、酸素濃度の低い水の中みたいな日々が続くだけなのだとしたら、私はもう沈んだままでいい。

 いつの間にか、人生はこんな風になっていた。

「自由は、苦しいんだよ」

 飼育ケースの中の世界で、黙々と桑の葉をかじり続ける蚕たちを見下ろして言った。

 今日は、桑の葉があまり減っていない。いつもなら、放課後の時間には食べ尽くされて、スカスカの筋だけになっているところが、あちこちにまだ葉が残っていて、蚕たちの動きも鈍い。

 よく見ると、ケースの端っこに5センチくらいの白い塊があった。

 緩慢な動きで身をよじっている蚕たちは、体が黄色っぽくなっていて、わずかに糸のようなものを纏っていた。生物教師は、繭になり始めたのだと言った。

 間もなくして、全ての蚕が繭に変わった。

 私の、世話係としての仕事はどうやら終わったらしかった。
 その後も、私は毎日飼育ケースの様子を見に行った。最初は白かった繭が、徐々に黄色味を増して、飴色に変わっていった。

 白くて無防備で迷いの無かった幼虫たちは、小さな繭の中で、何を思うのだろう。

 身体が溶けて混ざって、また新しい形を成し、違う何かになってゆく。そんな彼らに、意思はあるんだろうか。私も、ドロドロに溶けてしまえればいいのに。脳も心臓も一緒の液体になって、新しいものに生まれ変われたなら、少しは何かが変わるのかもしれない。
 
 けれど、私は繭をまとえない。

 ある日、繭の一つが破れていたのを見つけた。その近くに、真っ白い毛に覆われた綿のような蛾が佇んでいる。

 あの一心不乱に葉を貪って身をよじらせていた幼虫は、無垢で美しい生き物に生まれ変わっていた。

 その日の夕方に、他の繭からも真っ白な成虫が顔を出した。翌朝には、殆どの繭が孵化していた。

 生物教師の話では、成虫には消化器官が無い為、繭から孵っても何も食べることなく、ほどなくして餓死してしまうとのことだった。たまたま手に入った幼虫を授業で見せる為に持ってきただけなので、この後どうするつもりもなく、飼育ケースの中で死んでしまうまで飼うつもりだという。

 ケースの隅に、茶色く変色したまま干からびた繭があった。何かの具合で孵ることの出来なかった繭だ。

 孵った繭と、孵れなかった繭は、何が違ったのだろう。彼らは毎日ただ餌を食べ続け、ひたすらに生きていたはずではなかったのか。迷いなく 生きていれば、何かになれるのではないのか。

 それから数日後、飼育ケースのあちこちに卵らしきものがくっついていた。繭から孵った蚕蛾は、交尾をして卵を産んだら、ほどなくして死んでしまうらしい。役目が終わると いうことなのだろう。

 私は、生物教師に蛾をケースから出していいか聞いた。君がそうしたいのなら、と言われたので、私は飼育ケース抱えて、校舎裏の植え込みまで運んだ。

 ケースの中の蛾は、飛ぶこともなく、活発に動き回ることもなく、ヨタヨタと頼りなく身体を揺するだけだった。

 私は、一匹ずつ蛾をケースから出し、柔らかい土の上に乗せた。もう弱りつつある彼ら は、この植え込みからどこかへ行くこともなく、もしかしたら他の虫や鳥に食べられてしまうかもしれない。

 でも、このケースの中でだけ生きて死んでゆくところを見たくなかった。

 君たちは、生きることに意味を感じられたの?
 
 そんな言葉が過って、けれど土の上で数歩進んだきり佇んでいる彼らを見て、意味なんて必要としていないのかもしれないと思った。

 意味があってもなくても、いつだって目の前には現実があるのだ。
 
 全ての蛾を飼育ケースから出した後で、私は羽化できなかった繭を土に埋めた。

 私もきっと、繭の中にいる。何ものでもない、混沌としたドロドロの中に。

 何かになれるのかどうかは、分からない。

 私は最後の繭を土に埋めて、飼育ケースを生物室に持ち帰った。

 いつかは、何かになれる。

 そんな幻想を抱きながら、私は今も繭の中で膝を抱えている。

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