創作エッセイ(27)相対化ということ(2)

 昨日から引き続き「相対化」について。
 先日、高校時代の友人と一泊旅行をしたのだが、その酒宴での話題。
 彼らとは、遺跡や史跡巡りなどを楽しむ仲で、今回も大人の遠足気分で諏訪・茅野近辺を回った後、茅野に共同所有する山荘に一泊したのである。

気づきから考察が進む面白さ

 ウクライナ問題のロシアや、自由を制限している中国を見ていて最近気づいたことが、近世から現代まで、あの二国には民主主義社会が根付いていなかったのではないかということだ。
 欧米の先進諸国は、選挙を経て議会が機能する社会での歴史が長い。一方、ロシアの場合は帝政から一気に一党独裁の共産主義国になり、皇帝が書記長に代わっただけ。中華人民共和国も同様で、曲がりなりにも民主主義を目指していた中華民国は大陸から追い出されてしまった。
 この二国の社会が「ローマ帝国に似てるよね」という話になった。
「相対化」すると正反対のはずである、皇帝政治と労働者独裁の国が「実は似ている」という気づきになる。
 ローマの皇帝が党の指導者で、ローマの市民が党員。大多数の奴隷は一般市民という構成。
 友人曰く「議会の力で皇帝を止めさせられるだけローマ帝国の方がましだけどね」(苦笑)と。
 同感である。
 せっかく民主的な制度を作っても、結局は独裁による政治に変質してしまう途上国。「これは市民意識が育っていない」からだろう。
 前述の二国は、その歪みを抱えたまま大国になってしまったのだ。
 今でも、同様のことは世界で起きていて、「歴史は繰り返す」を実感する。

正反対だと思っていたけど実はうり二つ

 私の父は名古屋市の公立高校の教員であった。かつて公立学校の教員達はほぼ全員が組合に入っていた。昭和33年生まれの私も、家に配達されていた赤旗日曜版を読んでいたし、レコードプレーヤーの横には、ロシア民謡のソノシートが置かれていた。
 そんな父が組合を辞めたのは、浅間山荘事件がきっかけだった。
 連続銀行強盗や銃砲店襲撃事件などで武装した京浜安保共闘と共産同赤軍派の残党が警察の目を逃れて山岳ベースを作り「連合赤軍」を立ち上げた1971年。そして、翌72年2月にあさま山荘事件で全員が逮捕されるのだが、そこで明らかになった山岳ベースでの「総括」という名のリンチ殺人が明らかになったのだ。
 犯人の青年の父親が、私の父のかつての職場仲間だったこともあり、父は衝撃を受けていた。
戦争中の内務犯での新兵いじめと同じじゃないか」と父は呟いていた。
 革命集団と旧軍という相反する組織が実は鏡に写った逆像に過ぎないと、父は気づいたのだ。
 この相対化を通して考察すると、思っている以上に歴史は繰り返していることに気づく。

人間は変わらない、だから歴史は繰り返す

 この視点を養うきっかけになった本がある。「秘伝・日本史解読術」(新潮新書)だ。これは伝奇作家、歴史小説作家の荒山徹さんの著作で、一読、歴史の見方ががらりと変わる。
 時代や国が変われども、歴史を作る人間の心、感情、喜怒哀楽は変わらない。だからこそ、同じような過ちや迷走を繰り返すのだ。

 物事を相対化して見るということは、表面的な夾雑物を排して、本質を見つけることなのだろう。

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