手の影はやがてうみゆり生者より死者が多いの海のゆめには

実は自分はかつてかなりの睡眠のオタクで、とりわけレム睡眠のオタクだった。

なんのこっちゃわけわからないと思うんですけど、わたしは一時期(というと人生のうちの長くて数ヶ月のようだが実際には十数年にわたって)レム睡眠時に起こる明晰夢(俗称・体外離脱)を意図的にみる訓練をしていた。そのことに多くの時間を注ぎ込んでいる、という意味あいで"オタク"と表現した。

高校生や大学生だったころには時間があって、眠チャンス(みんチャンス)がたくさんあったので昼夜を問わず体外離脱の練習をしていた。自分の家でも、人の家でも、どこに居てもとにかく寝た。十八歳までの、まだ自分の生家に住んでいたころは特にのめり込んでいて、たとえば友だちとの約束が急になくなったときなどに(よっしゃ!これで離脱をやれるぞ!)と思って出かけようとしていた格好のそのままに即ベッドで寝るというような始末だった。

明晰夢というのはざっくりと言うと、夢の中で「これは夢だ」とはっきりと認識しながら見つづける夢のことで、これまたざっくり言うとこの状態のとき人間の脳は起床時と睡眠時のちょうど中間のような動きをしているらしい。
うとうとしているときに高いところから落ちる夢を見て体がビクッとして目覚めたことがある、という人は多いと思うのだけど、わたしの感覚ではあの感じに極めて近くて明晰夢には運動感覚や一部の体性感覚が"ある"。夢を夢と認識しながら、感覚をもってある程度自由に夢のなかを動き回れるわけである。
(もちろんVRのように実際に体を動かしているわけではないのだけど、脳が実際の運動時と近い動きをしているという状態なのだと思う。ちなみに、落ちる夢に体が反応して目覚める現象には「ジャーキング」という名称がある。)

10代半ばから20代までそのように、睡眠のたびに"練習"を続けて結果はどうだったのかというと、わたしは体外離脱の才能がまったくなかった。
ふだんは「才能」という言葉の使用はなるべく避けているが……これだけの期間チャレンジして、これまで自由に動けるレベルの明晰夢をみたのは実に5回前後だから、才能なしと言わざるを得ない。
というのもわたしは『ドラえもん』ののび太くん並に、いつ・どこででも・すぐに寝入ることができるという特性があって、入眠時にごくごく浅い眠りを意図的に起こす必要がある体外離脱とは完全に相性が悪かったのだ。

そもそもなぜそんなに体外離脱に夢中になっていたのかというと、わたしはつい最近まで睡眠時にほぼ毎日、起きたときに覚えている程度の強さで夢を見ていた。寝つきは"のび太くん"だが、寝入るまでが速いというだけで眠っているときに夢をみることは阻止できない。そのほとんどは悪夢で、先述したジャーキングや、叫んだり怒鳴ったり暴れながら目が覚めることも少なくなかった。現実的に怖い・いやな夢もあれば、ホラー映画のように視覚的に怖い夢、自分の脳が出来得るかぎりの嫌な表現を詰め込んだ夢をみることもあって、自分の脳のせいで新たなトラウマを生むこともあるような状態で、本当に辛くいつも解放されたいと思っていた。
体外離脱のことは中学生のころ、インターネットの掲示板で知った。どうせ毎日夢を見るのなら自分でコントロールできるほうがマシだと思った。それで、どんどんのめり込んでいったのだと思う。

明晰夢のエリートにはなれなかったけど、明晰夢を見るためにかつては夢の日記などもつけていて、わたしの書いている詩歌のいくつかはそれがモデルになっているものがある。そのように創作などにかなりの影響を及ぼしているので、収穫がゼロだったわけでは決してない。それに、数回の明晰夢はとても快適で、有意義だった。その内容については以前エックスには書いた気がするのだけど、またどこかで書こうと思う。

最近はとんと練習をしなくなっていた体外離脱のことを話したくなったのは、最近実母と話した際に「毎日金縛りが起きる」と言っていて、まさに明晰夢をみたという話をしていたからだ。たしかに母は金縛りにあって怖いものを見た、不思議な体験をしたといった話をわたしが子どものころからしょっちゅうしていた。実は明晰夢・体外離脱という眠りながら動いている感覚へは、たいていの場合この"金縛り"の状態から移行する。つまり母はナチュラルボーン明晰夢エリートなのだ。それも天然で。
「またあの世界にいくのかと思うと怖いからなるべく起こらないでほしい」と言っていたのが印象的だった。わたしがかつてあれだけ焦がれていて、待ち望んでいた金縛りをひどく怖がる母をみて、この分野の才能の神さまはたちが悪いなと思った。


手の影はやがてうみゆり生者より死者が多いの海のゆめには
/湯島はじめ

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