見出し画像

セックスと叫ぶ子供たち

小学生の最初の方、低学年的なときは俗物な事を言っていた気がすると今になって思う。でも、ここまでではない。

久しぶりに友達が町から帰ってくるときだった。一緒に公園に行こうといって久しぶりにそいつと話していた。そんなときある子供たちが現れた。その子たちは二人だけで目の前で遊んでいた。いいな、こんな時期もあったなとボヤいていた。明るい雰囲気の前でくらいことをいう二十過ぎのふたりとみるとなかなか笑えるものである。その子たちとじゃれあっていたのだ。普通にごく普通に話していた。そうしたら普通に聞いてきた。というか、普通に声を発した。
一人は高学年、もう一人は低学年と言った感じだったが、その子がこう言ったのだ。

「セックス」と。

適当に流して話続けたが、ときあることに言っていた。そのとき僕たちはどうすればいいかわからなかった。一緒になって叫ぶなんて思考は毛頭ない。だが、意外とこんなことがあるのかと思うと学校の先生は苦労するだろうなと思った。

すると何だかんだあって、その子たちの両親が現れた。
「あんた行くよ。」
とだけ言って、こちらに良心的な会釈をした。そして、いえいえと思い会釈返した。

そして帰路についた。

今でもびっくりする。普通にびっくりする。ホントにびっくりする。驚愕だ。

そんなものだと納得していい物だろうか。公的な風俗に反するなどというつもりはない。個人的には大人たちの問題だと思っている。

海外に比べて日本は性教育の発達が遅いということは無いだろうか。僕は一切と言っていいほど学んでこなかった。性という概念を。実際にセックスをするとき、大学生がAVとか学んだことがそのまま実践で投入されるのはこの社会では当然なのではないかと思う。「いや、わかれよ。」と言ってやりたいが、そのまま成り行きで学んできた人間にそんなことを望むのは高望みなのかもしれないと思うところもある。

子供が生まれる事や愛をはぐくむことはいい事だ。この現実は残念ながらコウノトリが運んでくれるわけではない。マリア様は胎児告知でイエスを宿したことを知ったらしい。でも、僕たちはマリア様ではないのだ。残念だが。性行為、生殖活動を行わなければならない。それは、いいことだと言う人が大半なのに、絶対にセックスやオナニーと聞くとなぜか心に曇りが生まれる。その曇りは笑いで晴らすぐらいしかない。下ネタで笑うのもいいが、子供達がそのように強烈な事をいうという現象はびっくりするほかないだろう。


親に聞くと、僕は11年間できなかったらしい。子供が我が母に宿ることは何回もあったが、流産などが原因で無理だったと言われた。合計で五回ほど不運にあったらしい。だから、11年もかかったんだよと何度も言われた。笑顔でだ。その顔を見ると、ゲームキャラみたいに自分の意思で合意の上で生まれたわけではないが、誰かのためならいいかと思ってしまう。
自分の生まれるまでの話を母の友人の助産師さんがよくするそうだ。すると大体泣く子がいるらしい。すごいとおもう。僕が単純に生まれただけだが、そんな感動を呼べるだと思うと単純に嬉しい。だから、性行為も自慰行為も別に悪い事じゃないと思いたい。

昔は良かったかもしれない。あまり性教育なんて知らなくても、見合いをして結婚だろうから、順序立てていけたのだろう。でも、それが全然なくなり、恋愛婚が通常になった現在ではそれは意味がなさなくなった。そして、それに追い打ちをかけるかの如く、インターネットが発達することによってアダルトなものが簡単に見れるようになってしまった。だから、こんなことが起きてしまった。というのが僕の説だ。そんなふうに思う。時代の変革は止められないものだ。それは歴史を見れば簡単にわかる。小学生でもわかるだろう。あれだけローマ帝国は発展したが結局は滅びてしまった。時代は変わるのだ。技術の発展も、社会通念も、倫理感も変化するのだ。でも、なぜかこの『性教育』は変わらないのか。大事なのは性について理解を深める事だろう。そうすれば別に同性愛者の人を気持ちが悪いなんて思わないだろう。筆者はそっちの畑には行けないけど、でも好きにどうぞ。認めますよ精神だ。本題に戻ろう。

だけど、これを教える事がまずない。正直、保育園や小学生で教えていいのではないかと思わざるを得ない。前述したように、性教育の講習のタイミングが遅いのとそしてレベルが低いのではないかと思う。小学生の頃にやったが赤ちゃんはいいよねぐらいのことしかしなかった。そう、全体のレベルを引き上げるべきだ。LGBTQの人の問題もあるのだから、こう「駄目な部分もあるんだよね。性関係の問題も山積みなんだよ。」と教えてあげることが重要なのではないだろうか。ゆっくり変えていっているのは知っているが、それでは知識がまばらになってしまうだろう。特徴ならばいいのであるが、まばら、レベルが異なるというのならばそれは困るだろう。

ならば、国にやっていってほしいとおもう。今の学びは学術的なモノばかりで、生活に即した実学は少ないように感じる。学術的な事は悪いというわけじゃない。かみ砕けば、興味深くなるし、わからないことがあれば調べればでてくるからどんどん興味深くなるという具合だが。(筆者はどちらかというと、そっち方面から影響をもろに受けています。)だが、一般の人が興味を持つのはとても難しい。このように簡単に興味を持てる一般的な問題などを考えることしかないだろう。その実学の一部として学校教育に導入してもいいのではないだろうか。そう思う。

ちなみに、歴史をみたらわかることのもうひとつは「歴史を学ばない、無能集団」ということだけである。

では、また他の記事で。