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二宮翁夜話 巻之一、第二節 天に善悪なし。善悪は人のためにある

自分の勉強も兼ねて、二宮翁夜話について書いています。不定期投稿。
ニワカのやることなので、読み間違いなどありましたら、ご指摘いただけると助かります。

今回の原文も長いので、一番最後にまとめて乗せました。

・抄訳

世界は循環し続けて止まることがない。
その働きは、万物を生みだし、また滅する。
人や物を生むのも天道なら、人や物を衰えさせ滅するのもまた天道である。

天の道には善悪の区別がないので、米も雑草も同じように育て、役立つものもそうでないものも、同じように滅ぼしてしまう。
これでは、人は生活できない。

そこで人は、人道をたてる。
米は善、雑草は悪。家を作るのは善、壊すのは悪と、人に役立つ・役立たないで善悪を区別する。これは天道とは違う道である。

人道は人の作ったものであり、天道のように確固たるものではない。政治、教育、刑法、礼法などの力を借りなければ壊れてしまうほど脆いものだ。
これほど手間を掛けなければ保てない人道を、天理自然の道と思うのは、大いなる間違いだと思うべきである。  

拙訳 きちんとした訳を読みたい方は書籍を参照して下さい

・感想

人道は、人の作ったルールであり、自然なものではないという一節。
自然なものでないため、守るには手間も労力も掛かるとします。

この説、孟子を念頭において語っている気がします。

孟子は道徳のもとになるのは惻隠の情という、自然な感情であるとしました。つまり、学ばなくても心の内にあるので、心を磨けば出てくるものと考えます。
尊徳はそれに対して、人道は人工的なもので、学んだ上で努力して維持するものだと考えるのです。

儒教の元になった孔子自身も、
「七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず」
と言っていますね。ひっくり返すと、孔子も七十まで自然にはできなかったくらい、難しいということ。

ちなみに二宮尊徳は、どうも孟子があまり好きではないようで、この後の十一節で、けっこう厳しい意見を述べています。

・原文

翁 曰(いわく) 、夫 (それ) 世界は旋転してやまず、寒往けば暑来り、暑往けば寒来り、夜明(あく)れば昼となり、昼になれば夜となり、 又万物生ずれば滅し、滅すれば生ず、譬へば銭を遣(ヤ)れば品が来り、品を遣(ヤ)れば銭が来るに同じ、寝ても醒(サメ)ても、居ても歩行(アルイ)ても、昨日は今日になり今日は明日になる、 田畑も海山も皆その通り、 爰(コヽ)にて薪をたきへらすほどは、山林にて生木(セイボク)し、爰で喰(クヒ)へらす丈(だけ)の穀物は、田畑にて生育す、野菜にても魚類にても、 世の中にて減るほどは、 田畑河海山林にて、生育し、 生れたる子は、時々刻々年がより、築(ツキ)たる堤は時々刻々に崩れ、掘(ホリ)たる堀は日々夜々に埋(ウヅマ)り、葺(ふき)たる屋根は日々夜々に腐る、是(コレ)即(スナハチ)天理の常なり、然(シカ)るに人道は、是と異也、 如何(イカン)となれば、風雨定めなく、寒暑往来する此世界に、毛羽なく鱗介(リンカイ)なく、裸体(ハダカ)にて生れ出(イデ)、家がなければ雨露(アメツユ)が凌がれず、衣服がなければ寒暑が凌がれず、 爰(ココ)に於て、人道と云(いう)物を立て、米を善とし、莠(ハグサ)を悪とし、家を造るを善とし、破るを悪とす、皆人の為に立(タテ)たる道なり、依て人道と云、天理より見る時は善悪はなし、其証には、天理に任する時は、皆荒地となりて、開闢(カイビャク)のむかしに帰る也、如何となれば、是(これ)則(すなわち)天理自然の道なれば也、 夫(それ)天に善悪なし、故に稲と莠(ハグサ)とを分(ワカ)たず、種ある者は皆生育せしめ、生気ある者は皆発生せしむ、 人道はその天理に順(シタガフ)といへども、其内に各区別をなし、稗(ひえ)莠(はぐさ)を悪とし、米麦を善とするが如き、皆人身に便利なるを善とし、不便なるを悪となす、爰に到(イタリ)ては天理と異なり、如何となれば、人道は人の立(たつ)る処なれば也、 人道は譬(タトヘ)ば料理物の如く、 三倍酢の如く、 歴代の聖主賢臣料理し塩梅 (アンバイ)して拵らへたる物也、 されば、ともすれば破れんとす、故に政(マツリゴト)を立(タテ)、教(オシヘ)を立、刑法を定め、礼法を制し、 やかましくうるさく、世話をやきて、 漸(ヤウヤ) く人道は立(たつ)なり、然(シカル)を天理自然の道と思ふは、大なる誤也、能(ヨク)思ふべし

二宮翁夜話 web「小さな資料室」より


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