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二宮翁夜話 巻之一、第五節 天理自然は偉大だ。でも人は自然に生きていない

自分の勉強も兼ねて、二宮翁夜話についての不定期投稿。
ニワカのやることなので、読み間違いなどありましたら、ご指摘いただけると助かります。

・抄訳

動物は風雨にさらされて暮らし、餌があれば食べ、無ければ食べない。これが自然の道である。
家に住み、食料を蓄え、衣服を着る人間の生活は、もとより自然ではなく、すべて作為の(意図を持って作った)道なのだ。

作為の道は、自然に逆らうものであるだけに、少し怠れば駄目になる。
それを天の理だと思い、自然に成るものだと誤解していると、失望することになる。

人道は、人の都合による作為の道であり、天理自然とは遠く隔たっていることを知らねばならない。

・感想

「太陽は、誰でも平等に照らす」という言葉があります。

一般的には「太陽は分け隔てしない、偉大だ」という文脈で使われることが多いのですが、うがって考えると、日焼けで肌が痛い人も、熱中症で倒れそうな人も、平等に照らすのが太陽です。

尊徳のいう天理自然は、偉大な力ですが、良くも悪くも別け隔てしない。
人が望む結果を手に入れたいなら、天理に頼りつつも、必要なところは人道で管理しなければならないと考える尊徳はリアリストです。

その一方で「努力は必ず報われる」とも考えているフシがありますね。
法則を知り、きちんと働けば結果は必ず出るとも言っています。

尊徳の死後、十数年で時代は明治。
「天は自ら助くるものを助く」の「自助論」(西国立志編)や、福沢諭吉の「学問のすすめ」がベストセラーになります。

明治時代、努力次第で誰でも立身できるという思想の流行には、尊徳の働きも一役買っているのかもしれません。

・原文

翁曰(いわく)、夫(それ)人の賤む処の畜道は天理自然の道なり、尊む処の人道は天理に順(シタガ)ふといへども 、 又作為の道にして自然にあらず、 如何となれば、雨にはぬれ日には照られ風には吹(フカ)れ、春は青草を喰(クラ)ひ秋は木の実を喰ひ、有れば飽(アク)まで喰ひ無き時は喰(くらわ)ずに居る、是(これ)自然の道にあらずして何ぞ、 居宅を作りて風雨を凌ぎ、蔵を作(ツクリ)て米粟を貯へ、衣服を製して寒暑を障(サヽ)へ、四時共に米を喰ふが如き、是(これ)作為の道にあらずして何ぞ、自然の道にあらざる明か也、夫(それ)自然の道は、万古廃(スタ)れず、作為の道は怠れば廃る、然るに其(その)人作の道を誤(アヤマツ)て、天理自然の道と思ふが故に、願ふ事成らず思ふ事叶はず、終(ツヒ)に我世は憂世なりなどゝいふに至る、夫(それ)人道は荒(クワウ)々たる原野の内、土地肥饒にして草木茂生する処を田畑となし、是には草の生ぜぬ様(ヤウ)にと願ひ、土性瘠薄(セキハク)にして草木繁茂せざる地を 秣場(マグサバ)となして、 此処には草の繁茂せん事を願ふが如し、是(ここ)を以て、人道は作為の道にして、自然の道にあらず、遠く隔りたる所の理を見るべきなり

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