ショートショート 消したい記憶

人は記憶を自由にできない。

覚えることも、さりながら、
消すことが、ままならない。
僕はこれを仮に、ごうと呼ぶ。

覚えることよりも、
消せないことの方が、
なによりも罪深い。

ある日、僕のスマホにメールが届く。
件名に「記憶消せます」とだけある。

本文には「R事務所」とだけ書いてあり、
電話番号と「KCビル」と雑居ビルらしき、
住所が書いてあった。

こんなメールで騙そうとしているのかと
思ったが、件名が少し気になり、
メールは消さずに残したままにした。

何日かして仕事で取引先の会社へ行った帰り、
お昼をとっていなかったことに気づいた。

何を食べようかと辺りを見回すと、
見覚えのあるビルの名前が目に入った。
看板には「KCビル」と書いてある。

以前付き合いのあった取引先でも入って
いたかなと思いテナントの看板を眺めると、
「R事務所」と書いてある。

ここまできて、僕はメールを思い出した。
確か「記憶消せます」とだけ書いてあった
あのメールだ。

もう一度テナントの看板を見ると、
事務所は2Fにあるらしい。

念の為、近所の人に聞いてみようと、
ビルの前にある果物屋のおしゃべりが
好きそうな女店主に話しかけてみた。

「あの、りんご、もらえますか。」

「いらしゃい。りんごね。
今、時期だから安くしておくわよ。
4個で800円でいいわ。」

僕はひとつでよかったのだが仕方ない。

紙袋に入れてもらいながら、
「前のビルのR事務所って、
何やってるんですかね。」

とストレートに聞いてみた。
800円分は話してくれるだろう。

「あら、お客さん探偵さんか何か?
何やってるっていわれてもね。
私、別に見張ってるわけじゃない
しねえ。」

なかなか、口が固い。
そこで僕は仕方なく、

「えっと、このバナナも、
もらえますか。」

「あ、わかった、あの事務所の
お客さんでしょう。
ときどきお客さんに聞かれるのよ。
いやねえ、知らないわよ。
あの事務所の所長が少しかっこいい男で、
事務所に出入りするのは、他に誰もいない
ことくらいしか。」

いやいや、十分な情報ありがたい。
でもグズグズしていると、店を出るまでに
メロンまで買わされそうだ。

ビルの二階に上がると、
通りに面した部屋の扉に「R事務所」
のプレートが貼り付けてあった。

そっとドアのノブを捻ったが開かない。

今日は休みだろうか、などと考えていると
大きな紙袋を抱えた40代くらいの男が
僕の後ろに立っていて、

「開きませんよ。」

と声を掛けてきた。

「お客様ですか。申し訳ないです。
今、ちょうど、買い物に出かけていて。」

所長らしき人はそういって、
ドアの鍵を開けようとしているが、
どうみてもパチンコの帰りである。
大きな紙袋には店の名前がどこにも
書いてない。中身はたぶん、
パチンコの景品だろう。

「少し、そこでお待ちいただけますか。
散らかしてまして。」

慌てて中に入っていく所長。
どうやら、社員はいないらしい。

「お待たせしました。どうぞ、こちらへ。」

案内されたのは、小さなテーブルを挟んで
ソファーが対になっている応接コーナーだ。

奥にキッチンがあるらしく、
カチ、カチ、カチ、と音がして、
ガスコンロの火がつく音がする。

「それで、本日はどうされましたか?」

ガスコンロにヤカンをかけてソファーに
戻った所長がさっそく本題に入る。

僕は果物屋で買わされた果物を
テーブルに載せた。

「ああ、前の店の女主人でしょう。
あなたも買わされたんですか。
仕方ない人だ。
いや、あの女主人がですよ。」

通常、人は記憶を自由に
することができない。

私は自在に記憶を取り出し、
戻すことも、捨てることも出来た。

これは私に備わった能力だ。
初めは自分だけに使っていた。

人間生きていれば、
嫌な出来事はたくさんあるし、
忘れたい失敗もたくさんある。

それを一々、思い出しては、
落ち込む時間を過ごすなんて、
時間がもったいない。

だから、私はそんな記憶は
消すことにしていた。

若い頃は忘れていても、
変わった奴で済んでいた。

しかし、年齢を重ねると、
そうもいかなくなる。

この能力を使うと記憶の一部が
欠落するので辻褄が合わない
場面に出くわすことがある。

以前の失敗を繰り返してしまう
ことも何回かあった。

私は勤めていた会社の仕事を
続けることが難しくなり、

仕方ないので会社を辞めて、
この事務所を開業した。

「それで、ご要件は何でしょうか?
こちらのことは、どなたのご紹介ですか?」

僕は例のメールの件を話す。

「ああ、あのメールですか。
実は私も困ってましてね。
というのは、あれは当事務所が
出したものではないのです。
一時、嫌がらせの電話やら、
素見ひやかしのお客やらが、
多くなりましてね。
営業妨害ということで、
警察に被害届を出したところです。」

なるほど、そういうものかもしれない。
けれども、僕にはこの所長のいうことが
本当なのか知るすべはない。

所長は僕に構わず話を続ける。

「でも、折角お越し頂いたのですから、
これも何かのご縁です。
ちなみにメールに書いてある、
記憶を消すというのは本当です。
あまり宣伝できる商売ではないので、
お客様はぼちぼちですね。」

ヤカンが、ピーと音を立てる。
所長は失礼、と席を立って部屋の奥に消え、
ピーっと鳴っていた音が消えた。

事務所の中は一目で見渡せるくらいの
大きさで、所長の机は乱雑に書類が山積み
になっていた。

今、コーヒーを切らしてましてね、
といいながら所長はソファーに戻り、
どうぞ、と紅茶を机に置く。

すっかりお客さんになってしまった僕は、
今さら帰るわけにもいかず、
出された紅茶に口をつける。

「それで?いかがしましょうか。」

僕は促されてみて、
はたと、困ってしまった。

興味があって覗いたものの、
何か考えがあって来たわけではない。
思案にくれていると、

「ここに来られる方は、
皆さんいろんな事情をお持ちです。
言いにくいこともあるでしょう。
お時間なら気になさらず、
お待ちいたします。」

どうも、この所長のペースに
ハマったようだ。

僕には消したい記憶がある。
貴方にだってあるだろう。

何かの罪を犯したとか、
人を殺したとか、
そんな小説じみた話ではなく、

生きていれば、
人間を続けていれば、
消したい記憶の一つや二つ、
誰でもあると思うのだ。

そして、
その記憶にときどき、
苦しめられて、
眠れない夜だってある。

抱えきれない悩みを、
誰にも話すことも出来ず、

独り生きてゆく苦しみが、
人が抱えた業だとしたら、

神様は何と残酷な仕打ちを
僕たち人間に科したのかと、
僕は思う。

「ひとつ、言い忘れました。
消したい記憶は私に話す必要は
ありません。
あなたの頭の中でその記憶を
呼び起こせばいいのです。
記憶を呼び起こすこと自体が
お辛い方もいらっしゃいます。
その時はほんの一部を思い出して
頂ければ十分です。
後は私が”引っ張り出し”ます。」

なるほど、僕は少し安心した。

「あと、大事な事として料金ですが、、」

と、所長は金額を口にする。
思っていた金額よりも高額だった。

「もちろん、記憶が消せた実感がない
場合はお支払いは結構です。
今までいませんがね。お支払いは
現金払いのみです。あともう一つ。
消した記憶を戻すことも出来ます。
これは最初に決めてください。
ただし料金はかなり高額になります。」

ここまで説明を聞いた僕の気持ちは
決まっていた。

お金なら何とかできそうだけど、
記憶はどうにもできない。

「お願いします。記憶を消してください。
ただ、今日は持ち合わせがないので、
明日、またこちらに伺います。
僕の名刺をお渡ししておきます。」

「承知しました。」

吸い上げた記憶は
貯めることができて、
必要な時に頭に戻せる。

記憶の中身は私には見えない。

記憶を貯めるとき
定着するまでに数秒程度、
時間が必要だ。

その間は不安定なので、
簡単に棄てる事が出来る。

棄てた記憶は永遠に失われる。

僕は気がつくと、
事務所のソファーに横になっていた。

頭を常に満たしていた嫌な記憶は
すっかりなくなり、
もう僕には思い出すことも出来ない。

こんなにも爽やかな気分は久しぶりだ。
一体、何にそんなに悩まされていたのか、
とても不思議なくらいだ。

僕は所長にお礼を言い、
料金を支払って、事務所を後にした。

やれやれ、
これで今月もこの事務所の支払いは
何とかなりそうだ。

所長は疲れた風もなく、
客から受け取った紙幣を金庫にしまう。
金庫の扉を閉めながら考える。

今までたくさんのお客の記憶を
消してきた。
正確には棄ててきた。

ほとんどの客は記憶を戻すことを
選択しない。

私は記憶を棄てることは出来るが、
棄てた記憶がどこに行くのかは
知らない。

ほとんどの記憶はこの部屋で
棄てているから、棄てた記憶が
誰かに取りつくとしたら、
私ということになるだろうけれど、
そんなこともない。

では、完全に消えたのか。
そうともいえない。

吸い上げた時、
確かにその存在を感じるからだ。

私は記憶の内容は見えないのだが、
記憶を取り出している数秒の間、
記憶の存在、記憶の色が見えてしまう。

商売だから仕方ないのだが、
時にその数秒が耐えがたいときもある。

何といえばいいのか、
圧縮された記憶のオーラのような存在、
その気配を感じてしまうのだ。

先ほどの人のオーラはとても冷たく、
真っ青な色をしていた。

とても悲しいことがあると、
このようなオーラになることを
経験で知っている。

開業して1年目くらいのころに
一度だけ、真黒なオーラに出会った
ことがあり、そのオーラに触れた
ことで、しばらく寝込んでしまった
ことがあった。

それからは、そのようなオーラを
持つ人は丁重にお断りすることに
している。

それを見分けることくらいは
出来るようになっていた。

今日は、あの後はお客もなく、
事務所を締めて帰宅することにした。

まだ初めて間もないときは、お金がなく、
この事務所に住み込んでいた時もあったが、

今では、さすがにそれは辛くなって、
郊外に安アパートを借りていた。
そのくらいの年齢になっていた。

バス停から降りて、
アパートまでの帰り道には
田んぼ以外、何一つなくて、

遠くには淡く、青く、
低い山が連なっている。

タイミングがいいと、
山に日が落ちる時に
出会うことがあって、
その時間帯がとても好きだ。

今日も遠い山を眺めながら
歩いていると、
一筋の流れ星が落ちていくのが見えた。

その流れ星はとても冷たく、
真っ青な色をしていた。

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