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様々な手法で描かれた吉原の美人と桜……@東京国立博物館

近所に、2つの幹線道路と高速道路の出口がグワッと交わる交差点に架かる、立派だけれどあまり利用されていない歩道橋があるんです。わたしが使うのは、年に1度だけ。今週みたいにハクモクレンが満開の時季だけです。

その歩道橋のそばに植えてあるハクモクレンが、一斉に咲いているのを、真横から見られるんです。週末は、息子とサッカーをするために公園へ行くときに、「あの交差点の歩道橋に、ちょっとだけ寄らせて」と言って、一緒に見てきました。その空間だけ、真っ白……ではなくて、少し黄色みがかった空気感で、息子が「何この色?」と驚いていました。

ということで、その前の日だったかに東京国立博物館へ行った時に展示されていた浮世絵をnoteしておきます。おもしろい描き方するなぁと思わされる、おもしろい作品も見られました。


■光と色の表現が面白い窪俊満の《夜景内外の図》

《夜景内外の図》
窪俊満(1757~1820)筆|江戸時代・18世紀
大判 錦絵3枚続

わたしは解説を読むまで気が付かなかったのですが、提灯などの光で照らされている部分だけがカラーになっています。刷ったばかりの色鮮やかな時にだったらすぐに気がついたかもしれませんし、今でも、気がつく人はすぐに気がつくんでしょうね。

少し分かりやすいように、彩度を上げています

下で拡大した部分は、これだと分かりづらいのですが、桜の花びらの色に注目したいところです。光が当たっているところは、ほのかにピンク色で……という感じになっています。

解説パネルによれば「(作者の)俊満は、国学者で南蘋派の絵を描いた楫取魚彦(かとりなひこ)の門人で、北尾重政に浮世絵を学びました」と記されています。

Wikipediaで調べると、この楫取(かとり)さんの本名は、伊能景良さんです。この名前でピンッとくる人は多いと思います。「同郷で遠縁の親族が測量家の伊能忠敬」とのこと。楫取(かとり)は、故郷の「香取(かとり)」から取っているんですね。南蘋派(なんぴんは)というのが、どのような絵なのか分かりませんが、今度どこかで見られるのを楽しみにしたいと思います。

そして、もう一人の師匠が、浮世絵師の北尾重政さん。この北尾重政さん…わたしはよく知らないのですが、今の台東区の根岸に住んでいて、酒井抱一さんや鈴木其一さんなどとご近所さんでした。もしかすると、吉原が大好きだった酒井抱一さんとも仲が良かったかもしれませんね。

『根岸略図』国立国会図書館オンラインより
当時の根岸界隈に住んでいた文人墨客の略図です。酒井抱一と鈴木其一が隣に住んでいたのは師匠弟子の関係なので納得ですが、親友の亀田鵬斎も歩いて2〜3分の所に住んでいました。その亀田鵬斎の隣の「北尾」は、浮世絵師の北尾重政のことだそうです。その北尾重政の弟子には、北尾政演小説家の山東京伝がいますからね。この根岸界隈の賑やかさと言ったらないです。
過去note『江戸琳派の創始と言われる酒井抱一ってどんな人?』より

そして北尾重政さんの弟子には、今回の窪俊満のほか、北尾政演まさのぶさんや、より一般には鍬形蕙斎(くわがた けいさい)という名前で知られている北尾政美さんがいます。で、北尾政演まさのぶさんという名前は知らなくても、彼が艶本、黄表紙、洒落本を書く時に使っていたペンネーム、山東京伝という名前を聞いたことがある人は多いでしょう。蔦屋重三郎や大田南畝の仲の良い悪友ですので、来年の大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』に登場するかもしれません。

そうして、本作の上の方に描かれている、2階の部屋に集まっている人たちを見ると……なんだか上に挙げた人たちの誰かしらなのか、作者自身なのかを想定して描いたのかもなぁなんて想像すると楽しいです。

■遠近法の実践がすごい歌川広重の《東都名所・吉原仲之町夜桜》

こちらも吉原を描いた作品です。「へぇ〜、浮世絵でこんな遠近法で描いているのは珍しいな」と思って解説パネルを見ると、歌川広重さんじゃないですか。遠近法を覚えたてだったのかな? なんて思ったら、解説には「数多くの江戸名所の風景を描いた広重にとっては早い時期の作品です」とあります。そうなのかぁ……歌川広重さんが絵を描き始めて、けっこう早い段階で遠近法っていうのは認知されていて、それでも歌川広重さんなどの浮世絵師は、その手法に偏ることがなかったんだなぁと(勘違いなのかもしれませんけどね)。

上記については、note末に追記あり。

《東都名所・吉原仲之町夜桜 A-10569-3105》
歌川広重(1797~1858)筆|江戸時代・19世紀
横大判錦絵

存在感のある「月」が良いじゃないですか。日本人の絵っていう感じがしますね。それに吉原と言えば……花=桜です。毎年、桜の開花に合わせて、桜の植木を運んで来たという……だから柵で覆われて、根元は見られないようになっているんでしょうね。

そして、禿(かむろ)なのか新造なのかの妹分を連れて歩く花魁(おいらん)も、月と花との延長線上……ど真ん中に描かれています。通りかかった人たちが「おっ」という感じで振り返って見ていますね。

と見ていきましたが、全体として線がカクカクとした感じですね。柔らかい線がありません。これは歌川広重さんの狙いだったのか、もしくは彫った人の技術力というか、そういう彫り方をする人だったのか……。

■美人と浅草を描いた鳥文斎栄之ちょうぶんさいえいしの《金龍山桜花見》

鳥文斎栄之ちょうぶんさいえいしさんの《金龍山桜花見》は、金龍山の浅草寺を舞台に、吉原の花魁または遊女……または芸妓を描いた作品です……と、先日書いてアップしてしまったのですが、トーハク研究員(学芸員)の解説によれば、絵の右側の集団が武家の女性たちで、左側3人は町家の女性たちということでした【2024年3月26日追記】。

《金龍山桜花見》3枚 鳥文斎栄之筆

女性たちの背景に、2本の桜の木が描かれています。桜に架けられている立て札に注目してみると、左側は「金龍山」しか見られませんが、その背後には金龍山の浅草寺らしき本堂と塔が描かれています。一方の右側の桜には「奉納 金龍山 瀧桜 講中」と記されているのが分かりますね。それで「浅草寺 瀧桜」でググって見ましたが、それらしき情報は見つかりませんでした。

講中(こうじゅう)とは、ネット辞書によれば「講を組んで、神仏にお参りする連中(れんじゅう)」とあります。まぁ全国なのか関東各地なのかにある、金龍山浅草寺のファンクラブといった感じです。それら講中が、金龍山浅草寺に、桜を奉納したということです。

よく見ると桜の木が若いような気もします。柵が巡らしてあることから、もしかするとこれは、植木鉢などで育てたものを、桜が咲く時期に合わせて寺に奉納したものなのかもしれないなぁと……あくまで想像です。同じように、桜が咲く時季になると、別の場所から吉原へ持っていっていたと聞きますが、もしかすると、そうしたことは吉原以外でも、ここ金龍山浅草寺でも行なわれていたのかもしれません。

【2024年3月26日追記】
トーハク研究員・村瀬可奈さんは、小冊子『東京国立博物館ニュース』に「ここは浅草寺の本堂裏手の奥山と呼ばれる一帯で、享保期(1716~36)に吉原遊女たちが『千本桜』を寄進して評判を呼び、以降も桜が植え継がれたといいます」と記しています。

検閲済みを示す「極め印」
版元を示す「西村屋与八」の印
一番下はなんでしょうか

実際に吉原の女性たちが、近所とはいえ、浅草の桜を楽しむことがあったのかは分かりません。そう思いながら浮世絵を見ていたら、来週から東京藝術大学美術館で『大吉原展』が開催されることを思い出しました。東京国立博物館(トーハク)が、その兄弟姉妹的な施設で開催される企画展に合わせて、今、吉原関連の作品を多く展示している……わけでは、もちろんないでしょう。

浮世絵の画題といえば、歌舞伎か各地の名所か美人画か、それらを合体させたものなのかが圧倒的に多いですよね。その中で江戸=東京の名所と言えば、浅草か吉原なわけで、美人画と言えば、おそらく半数以上は吉原の遊女……中でも評判の花魁(おいらん)です。

『大吉原展』のホームページを改めて見てみると……少し前にザワツイた影響で、大幅にデザインというか色みが変わってしまっていました。以前は、ピンク基調だったのに、批判を受けてだと思いますがモノトーン基調になってしまいました(もちろん展示品はカラフルなままです)。う〜ん……と思ってしまったのは、せっかく華やかな吉原の文化を紹介するのになぁという、残念な気持ちも正直あります。

あまり関係ありませんが、いつだったかNHKの番組で「冷やかし」の語源を説明していたのを思い出しました。これも吉原関連の言葉ですよね。もともと江戸市中の紙くずを仕事として拾って集める人たちがいて、集めた紙くずをグツグツと煮て、再生紙を作っていた人たちがいました。どこに? と言えば吉原の近所です(この場所が重要です)。で、それを冷やす工程がありました。その冷やしている間に、客になるわけでもないのに吉原をぶらぶらと歩いていたことから、店で商品を見るだけのことを「冷やかし」と言うようになったそうです。

では誰が紙くず拾いをしていたかと言えば? 江戸東京博物館でも『ブラタモリ』でも「紙屑拾い」については説明していますが、誰が? については言及しません。紙くず拾いも再生紙を作っていたのも、穢多非人の「非人」です。「日本の江戸時代は、リサイクル社会だった」とよく言われますが、その担い手は、この紙くず拾いや再生紙作りから想像するに、非人などの、いわゆる差別を被っていたとされている人たちだと思われます。ではなぜ吉原の近所だったかと言えば、正確にどこで作業していたのかは(わたしは)分かりませんが、非人が住んでいた場所が、吉原の隣接地だったからです。

わたしは、このことに「言及しないこと」の方が、問題だと思いますけどね。で、「冷やかし」という言葉が生まれたとおり、非人が日常的に吉原の大門をくぐって、冷やかしていた……ということです。表立って「出ていけ!」と言われることもなく、少なくとも排除する制度はなかったのだろうと想像できます。

そういえば、段ボールのリサイクル率はかなり高く、95%を超えるそうです。10年くらい前まで、台東区では、町のあちこちで捨てられている段ボールを回収して、山のようにリヤカーに載せて運んでいる人たちがいました。同じように、ほんの数年前まではアルミ缶を集めている人たちも、よく見かけましたが……ここ最近は、どちらも見かけなくなりましたね……。まぁ彼らが段ボールやアルミ缶のリサイクル率を引き上げた要因なのか? と聞かれると……どうなんでしょうね……とは思いますけど、台東区は昔から、そういう町なんですよね(わたしは祖父と父が台東区生まれの台東区育ちで、わたしは千葉育ちです)。例えば、トーハクの周囲には野外生活者が多いです。昼間はどこかに行ってしまいますが(おそらく行政と秘密の約束があるのでしょうが)、夜になるとたくさんいます。これも昔からですが、昔というのは、数十年前とか昭和時代や大正、明治の昔からではなく、江戸時代からです。つまりトーハクができる前から……トーハクの場所に寛永寺の本坊があった頃からのことです。

吉原の女性たちの話に戻すと……浮世絵師の人たちは、吉原で働く女性たちの境遇を知らずに、アホみたいに浮かれて遊び、もしくは美人画などを描いていたか? といえば……そうではありませんでした。どんな心情だったのか分かりませんが、女性たちの境遇……折檻されている様子なども含めて……取材し描いて、後世にその状況を残したのも彼ら(男性)なんですよね……ということを、最近、吉原の本を読んでいて分かりました(三谷一馬著『江戸吉原図聚』)。

今のところ「だからなに?」と言われたら、「だから何かってこともありません」としか言えません。言えないというか、今回は、現在トーハクに展示されている浮世絵の面白さや素晴らしさについてnoteするのが主旨で、美人画に描かれている女性たちが、実は非業な人生を歩んでいたかもしれないということは、今回の主旨からは離れる話ですからね。

ということで、このへんで。

【2024/03/24 追記メモ】

モネやゴッホなど19世紀のフランス画壇におけるジャポニズムもイノベーションだ。しかし、そのきっかけとなった広重や北斎の浮世絵は、もとは西洋の遠近法の影響を受け発達したもの

田中正之|国立西洋美術館長


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