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南画の大家・谷文晁が描いた、伊豆・相模の偵察図

文人画や南画(南宋画)の大家として知られる谷 文晁たに ぶんちょうは、御三卿の田安徳川家の、家臣の家に生まれました。話によれば、お金儲けの才覚のあった祖父の代で田安家に取り立てられ、父は漢詩人としても知られていたといいます。

一方、主家である田安家で、谷 文晁たに ぶんちょうと同時期に生まれたのが、賢丸です。賢丸は、のちに田安家から陸奥白河藩の松平定邦の養子となった、松平定信です。

谷文晁は、のちに松平定信が所属する白河藩へ、転職します。おそらく2人は、田安家に居た頃から仲が良かったのでしょう。文人として認め合っていたのかもしれません。松平定信は17歳の時に田安家から陸奥白河藩へ出ますが、それから年を経てから、谷 文晁たに ぶんちょうが30歳の時に、白河藩の自身のもとへ呼び寄せ、仕えさせます。それ以降は、松平定信が隠居するまで近習として仕えることになります。

さて、<2022年8月>に東京国立博物館に展示されていた、『公余探勝図』こうよたんしょうずは、1793年の春に描いたもの。幕命を受けた老中・松平定信が、海防警備のために相模や伊豆の沿岸を巡視した際に、谷文晁に各地の風景を描かせたものだといいます。

Wkipediaには「(谷文晁が)30歳の時に、(白河藩主の)松平定信の近習となった」としています。谷文晁の生年は1763年…30歳と言えば1793年の確率が高く、その1793年と言えば、松平定信が相模や伊豆の沿岸を巡視した年です。もしかすると松平定信は、「谷文晁に描いてもらわなければ困る」ということで、生家の田安家に願い出て、谷文晁を自身の下にスカウトしたのかもしれません。

記録用として描かれているためか、コントラストが強く、岩などがダイナミックに描かれているように思えます。

『公余探勝図』の解説パネルには、「西洋画学習による遠近法や陰影法に基づいた広やかで量感のある空間が描かれています」と記されています。Wikipediaの谷文晁のページには「大和絵では古土佐、琳派、円山派、四条派などを、さらに朝鮮画、西洋画も学んだ」とあります。

一方でWikipediaの松平定信のページには、「洋学への強い関心」という項目があります。自らオランダ語を学ぼうとしたことや、元オランダ通詞や蘭方医などを召し抱え、洋書の翻訳や蘭仏辞典を訳させたりもしている。また「洋画収集を趣味として持っており、亜欧堂田善に洋式銅版画の技術を学ばせている」ともある。なお、この亜欧堂田善は、谷文晁を師と仰いでいたとする資料も見かけました。もしかすると、谷文晁が松平定信に推薦したのかもしれません。

それにしても、幼い頃から仲が良かっただろう松平定信と谷文晁は、好奇心が旺盛だという点で、気が合ったのかもしれませんね。

松平定信が「文晁さんヨ、最近、洋画に興味が出てきたんだけど、気に入った絵があったら、教えてくれないかい」と言い、文晁が「ほい! おやすい御用で! 実はわたしも、最近、西洋画が気になってましてね。それを真似て絵を書いたりしてるんですよ」なんてことを、まだ田安家に居た頃に言ったかも。

それで松平定信は、伊豆や相模を巡視する前に「文晁さんヨ、あんた以前に西洋画の真似事をしているって言ってたよな。今度、江戸湾の周辺をぐるりと巡ってみようと思っているんだけど、どうだ、一緒に行かねえかい?」。そして旅好きを自称する谷文晁は「おぉ、また旅へ出たくてウズウズしてたところです。こりゃあ渡りに船ってもんだ。ぜひご一緒させてください」とでも言ったかもしれません。

福島大学の谷文晁と松平定信に関する資料
https://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000005035/16-165.pdf

この時の旅を元に、松平定信は「江戸湾防衛の為、奉行所を伊豆4ヶ所、相模2ヶ所に設置することを唱えた」といいます。巡視から江戸に戻り、もしかすると谷 文晁たに ぶんちょうの描いた『公余探勝図』を眺めて、現地をイメージしながら、奉行所の設置場所を構想したのかもしれません。また、谷 文晁たに ぶんちょうに「あの伊豆の街は、どんな感じだったろう? 奉行所などを置くのにふさわしいだろうか?」などと相談したかもしれません。

谷文晁(1763-1841)は,江戸南画界の中心的人物。田安徳川家に仕え,同家から出た老中・松平定信に認められた。江戸湾防備の必要を感じた定信が相模伊豆の海浜を巡見した折,随従した文晁が各地の風景や旧跡を描きとどめたのがこの図巻である。西洋画法を取り入れた描写に文晁の真面目が発揮されている。

東博Webサイトの解説文

残念ながらと言うべきか、松平定信は、巡視から戻った寛政五年には、将軍補佐役と老住職を免ぜられてしまいます。以降の松平定信は、白河藩の藩政に専念するようになりました。谷 文晁たに ぶんちょうも、その松平定信に従って、彼にとっては異郷と言える白河へ行きます。そして「古文化財を調査し、図録集『集古十種』や『古画類聚』の編纂に従事し、古書画や古宝物の写生を行った」と、Wikipediaに記されています。

なお、『公余探勝図』は上下巻に分かれています。また巻物なので、展示ですべてを見ることは出来ません。すべてを見たい場合は、下のWebサイト「e国宝」を確認しましょう。高画質で確認できますよ。

寛政5年の春、幕命を受けた老中松平定信(まつだいらさだのぶ)(1758~1829)が海防警備のために、相模・伊豆の沿岸を巡視した際に、同行した谷文晁(1763~1840)に各地の風景を描かせ、自ら「公余探勝」と題したもの。各図はそれぞれ2枚を継ないでいるが、(第1巻の「石廊崎図」だけは4紙を継ぐ)紙継ぎの部分で多少ずれたり、画面の枠取りの墨罫などが残っているものもある。これは本図が当初2つ折りの冊子で、見開きの2ページごとに墨罫の枠をつくり、その中に一図ずつ描いた写生帖であったのが、後に墨罫の中を切り取って、現在のような2巻の巻子装に改められたものと推定される。図は、合計79図で、第1巻は「武州神奈川」から「柿崎山中南望」までの40図、第2巻は「其二(柿崎山中南望ツゞキ)」から「武州金澤 昇天山九覧亭舊跡 眺望」に至る39図がおさめられている。もとより本図は海防制政策を前提にしているが、画中の山や川・島や旧跡等の名称の細かな記述は、自然や風景より具体的な表現と言う点で、藍色の濃淡を用いた空や、淡墨や浅墨の陰影をほどこした山並みの描写、そして遠近を強調した画面づくりの姿勢と基本的に共通するものであり、文晁の強い制作意欲を示している。下巻の巻末に「寛政5年4月 豆州相州海濱御巡見時縮写之、谷文晁」の款記と「文晁」の朱文方郭連印がある。旧桑名藩松平家旧蔵。

Webサイト「e国宝」より

谷文晁の書

<2022年8月>に展示された『公余探勝図』《こうよたんしょうず》と同じ時期、東京国立博物館の書画室8-2室には、谷文晁たにぶんちょうがしたためた書状も飾ってありました。

パネルには何も解説が書かれていなかったので、何と書いてあるのか、どんな内容が記されているのか、さっぱり分からないのが残念ですが…。こうした書状を見ると、その人がたしかにその時代に生きていた人だと、その実存感を感じて、グッと身近になりますね。

書状(B-1374-3)

谷文晁が暮らした下谷

谷文晁は、宝暦13年1763年下谷根岸現在の台東区の生まれ。また、彼が作った画塾・写山楼は、下谷二長町に位置したという(いずれもWikipediaより)。下谷二長町がどこかを調べてみると、現在のJR山手線で言えば、御徒町駅と秋葉原駅の間にあたる。

この間、上野駅近くの稲荷町あたりを小学生の息子と歩いていたら、ばったりと「谷文晁墓」と記された寺の前に出くわしました。源空寺という寺で、以前から幡随院長兵衛や伊能忠敬の墓があることは知っていましたが、谷文晁の墓もあったんですね。歴史の用語集に載っている人……という薄っすらとしたイメージしかなかった谷文晁が、一気に身近に感じられました。

いつ来ても、庭がきれいに掃き清められている源空寺。ちなみに谷文晁の墓がどこにあるのかは不明です

<関連note>


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