見出し画像

国宝『聖徳太子絵伝』を間近で見たら、その精緻な描写がゴイスーだった…というお話(前編)

東京国立博物トーハクの法隆寺宝物館と言えば、明治時代に法隆寺から皇室に献納された約300件の宝物(法隆寺献納宝物)を展示するための建物です。

法隆寺宝物館だけでも博物館として成立するほど立派な建物ですが……残念ながら、約300件の宝物の中には、常時に展示するのが難しいモノも多いです。特に絵画や衣類などは、展示するほど劣化していくためです。

ということで、新たに常設展示室「デジタル法隆寺宝物館」が、2023年1月31日に開室しました。既報のとおり、展示期間がかなり限定されてしまい、なかなか見られない国宝『聖徳太子絵伝』のような絵画作品の、複製品を展示するためのスペースです。

本物の国宝は、ガラス越しで、しかもあまり近づいて見られないため、むしろ精細かつ忠実に再現された複製品の方が、わたしは好きです。さっそく、現在展示されている原寸大複製の『聖徳太子絵伝』を観てきました。

■『聖徳太子絵伝』とは?

まず東京国立博物館トーハクにある国宝『聖徳太子絵伝』は、複数あった『聖徳太子絵伝』の、現存するなかで最古のものです。トーハク所蔵の絵伝は、平安時代にあたる延久1年(1069年)に、秦致真はたのちしんさんという方によって描かれました。

トーハク版は、もともと法隆寺の夢殿を囲うように建つ建造物の一つ「絵殿」の障子絵として描かれました。それを現在は10面の額に改装して、保管されています。

さて『聖徳太子絵伝』は、ほかにも「上宮寺、堂本家などの絵巻、また四天王寺、橘寺たちばなでら鶴林寺かくりんじ斑鳩寺はんきゅうじなどの諸本がとくに知られている」そうなのですが、わたしは全く知りませんでした(カッコ内はコトバンクより)。上記のほかにも、トーハクには代々絵師をつとめた住吉家に伝来された、南北朝時代の掛け軸の絵伝が収蔵されています。上記の例のように、鎌倉時代以降は聖徳太子信仰が隆盛し、絵巻や掛け軸など多くの絵伝が作られたそうです。

トーハク版を含む絵伝には、聖徳太子の誕生から亡くなる(薨去こうきょされる)までの、様々な事跡が描かれています。また、絵巻などには、詞書ことばがき色紙しきしなどで、文字で説明が加えられています。

なお、トーハク版の『聖徳太子絵伝』には、58の逸話が全10面に描かれているのですが……これが絵巻のように右から左へと順に描かれているわけではありません。以下のように、ばらっばらに描かれているので、素人には……というか誰が見ても分かりづらいはずですw

トーハク版『聖徳太子絵伝』の、事跡リスト

トーハク版『聖徳太子絵伝』は、2面が一組になっています。そして一組目(1面と2面)が、誕生から27歳までの出来事が描かれていますが、二組目(3面と4面)は6歳から43歳、三組目(5面と6面)は17歳から49歳、四組目は16歳から薨去後22年、五組目は9歳から薨去後2年です。

しかも、一組の中でも、左上から右下……または上から下……などで順序だてられているわけでもありません。

ということで、わたしは、トーハクのサイトで配布されている上の表と見比べながら、『国宝 聖徳太子絵伝』の原寸複製品をじっくりと観覧していきました。

■あの有名な逸話も描かれている一組目

一組目…1面と2面

解説の、番号が振ってあるあたりを撮ってみたのですが(上の写真)、絵の損傷が激しく、何が描かれているか分かりませんでした。

ここでは聖徳太子の母親が、夢の中で金色の僧を見た話が元になっています。その僧侶は「我は救世の菩薩なり。家は西方にあり」と言って、聖徳太子の母親の許しを得てから、口中に入ったのです。その途端に母后は目を覚ましたが、喉の中にはまだ物を飲み込んだときのような感触がありました。

このことを解説では「|入胎《にったい》」という言葉を使っています。漢字の意味からすると、胎児が入った……ということでしょう。この言葉をGoogleで検索すると、まっさきに出てくるのが「釈迦の|入胎《にったい》」です。このことから、この絵伝は……というか他のも含めて『聖徳太子絵伝』は……聖徳太子を釈迦に重ねて伝えていることが分かります(わたしは、そう感じました)。

そして、聖徳太子の母親は、のちに第31代天皇になる用明天皇の妻(のちの皇后ですが、この頃は皇太子妃…東宮妃の可能性が高いです)。名前は、穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこと、すごく長いので以降は「母后ぼこう」と呼びます。この母后と夫の用明天皇の母親は異なりますが、父親は同じ欽明きんめい天皇です。そして母后の母親は、蘇我小姉君そがの おあねのきみ……つまりは、仏教推進派の|蘇我氏《そがうじ》の出身ということ。母后の兄弟には、有名な|蘇我馬子《そがのうまこ》がいます(聖徳太子の叔父)。

そして聖徳太子が、用明天皇の第二皇子として誕生します(母后との男子としては一人目)。

上の写真では、聖徳太子を抱いた(おそらく)母后ぼこうを中心にして、女官たちが喜んでいる様子が描かれています。誕生日は、敏達天皇3年の1月1日で、西暦では574年2月7日。まだ元号がない時代なので、敏達天皇が在位してから3年目という表記をしています。

聖徳太子の本名については、同時代の資料には記されていません。Wikipediaによれば和銅5年(712年)成立の『古事記』では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)」と記され、養老4年(720年)成立の『日本書紀』推古天皇紀では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)」とされています。

いずれにしろ、入胎にったいしたのが|厩戸《うまやど》だったということと、耳がものすごく良いという|豊聡耳《とよとみみ》が、当時の人たちには重視されたということです。また「聖徳太子」という名称は、亡くなってから129年後(薨御こうぎょ129年)の天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が、初出と言われているそうです(Wikipediaより)。

母后や女官が来ている着物が、平安時代っぽいなと思ったのと、衣服もだけれど表情までものすごく精緻に描かれていたんだなぁ……そう思って、上の写真を撮りました。そうしたら、たまたまベビー聖徳太子が写っていました。写真左側の女性が抱いているのが、聖徳太子ですね。

ちなみに絵の中には、うまやの前で誕生した様子も描かれているようですが、見つけられませんでした。

解説に「出産の祝宴である産養うぶやしないを行う」と書かれた場所あたりを撮ったのが上下の写真です。親戚・知人から衣服・調度・食物などが贈られたりするそうです。

数えで2歳になった聖徳太子は、「南無仏」と言いました。下の写真は上の拡大したものです。顔の表情などは削れてしまっていますが、手を合わせているのが分かります。

伝説に難癖を付けるのも大人気ないですけど、真面目に考えると「なむぶつって言ってみな……ね……いい子だから、なむぶつって」と、母后なのか、母親の実家…蘇我氏の家から連れてきた女官が、もし言い続けていたら、数え2歳でも「なむぶつ」とは、言えそうな気がします。「ねぇ…おとうさん…って言ってみて」……といった雰囲気だったかもしれません。

次の逸話は数え3歳のものです。散歩にでも連れて行ったのでしょうか、梅の季節ですから、聖徳太子の誕生日(西暦2月7日)あたりに、親子で花見にでもでかけたのでしょう。すると「梅の花もよいのですが、青々とした松のほうがきれいですね」といったようなことを言ったといいます。

なぜこのエピソードが選ばれていたのかは不明です。数え3歳で、もう大人を凌駕する、渋い好みになっていた……という、成熟さを伝えたかったのでしょうか。わたしなどは「ボス・ベイビーですか?」なんて思ってしまいましたが……。

どうやらオレンジ色の着物を着ているのが、のちに用明天皇となる、聖徳太子のお父さんのようです。この頃はまだ皇太子でしょうか。

下はおそらく梅を描いたものだと思われます。これ、ものすごく小さく描かれているんですけど、とても丁寧な筆致で驚きました。

数え4歳…すすんで、父君皇子に叱られにいったそうです。とはいえ、父の用明天皇の表情は、いたって柔和で、叱っているようにも見えません。なにかを諭した……などといった感じでしょうか。普段着ということなのか、胸元がゆるい感じですね。

一方で下の写真は、損傷が激しく詳細が分かりませんが、聖徳太子の姿を拡大したもこです。

数え5歳の時(578年)には、敏達びだつ天皇の皇后……のちの第33代の推古天皇に拝謁しています(下の写真)。緑色の御簾みすのむこうに、うっすらと見えるのが推古天皇……当時は豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)……料理の上手な姫だったことから名付けられたそうです。

それにしても、まだ皇后だった推古天皇への拝謁を絵伝に描く意味はなんでしょうか。聖徳太子にとってなのか、日本の仏教史にとってなのか、エポックな出来事だったということなのでしょうかね。

上の写真は、まだ幼さの残る数え5歳の聖徳太子に寄ったところです。よく見ると、手を合わせている……合掌しているようにも思えますが……。これは、当時の風習として、対象者が偉い場合には合掌していたのか……それとも仏教的な所作として合掌している姿を描いたのか……。

数え10歳の時(583年)には、蝦夷えみしが攻め込んできたそうです。この時に、聖徳太子が交渉して、武力に訴えることなく鎮めて、和を結んだそうです。のちに聖徳太子によって制定されたとする十七条憲法の第一条、「和をもって貴したっとし為すなす」に至る伏線のようなエピソードでもあります。

数え11歳(584年)…聖徳太子の逸話として有名な、36人の子どもの話を同時に聞き分けたという場面です。聖徳太子を囲むように子どもたちが座っていますね。

同種の伝説はいくつかあり、10人の(おそらく大人の)言葉を聞き分けて、それぞれ的確に返答したというものや、8人だったというものもあります。いずれにしてもすごいので、人々は聖徳太子を「豊聡耳とよとみみ」と呼ぶようになったといいます。

同じく数え11歳の時(584年)の聖徳太子は、空中を飛行するという特殊な能力を発揮したそうです。上の写真だと少し分かりづらいかもしれませんが、両手を左右へ水平に伸ばして、宙を浮いています。

画像:東京国立博物館

飛翔と言えば……12世紀末から13世紀頃に制作されたという吉備真備の絵伝『吉備大臣入唐絵伝』を思い出します。「生きている人が飛ぶ」というのが、いつ頃からの発想なのか分かりませんが、『聖徳太子絵伝』は、人の飛翔を、絵として描かれた最初期のものかもしれませんね。ちなみに、この後、馬で東国旅行へ旅立ちますが、その時にも馬にまたがって、富士山山頂付近を飛行します。

聖徳太子は富士山の八合目あたりに降り立ったという伝承も残っています。初めて富士山に登った人とも言われているようです。

富士山へ旅行した後の話で、トーハク版『聖徳太子絵伝』の1・2面(一組目)の絵には描かれていませんが、満11歳……数えで12歳の時(586年)に、父が用明天皇として天皇に即位しています。

『聖徳太子絵伝』の1・2面(一組目)では、最後に数え26歳(599年)になった聖徳太子が描かれます。この頃の聖徳太子の周りは慌ただしいものでした。まずは592年に蘇我馬子そがのうまこ崇峻すしゅん天皇を暗殺……その皇后だった推古天皇が即位……594年、数え21歳の時に|摂政《せっしょう》となり(同時に皇太子にもなった)、蘇我馬子そがのうまことともに推古天皇を補佐することになります。

そして597年、数え24歳の聖徳太子は、百済くだら国王の使い、阿佐あさ王子と面談しました。この絵によればなのですが、百済くだらの使者に、まるで謁見しているかのようです。でも、使者とはいえ百済国王の王子ですよ……一方の聖徳太子は皇太子であり摂政ですが、ランク的にこうなるものですかね……ちょっと疑問です。少なくとも、描かれた時代の日本は(平安時代・1069年)、百済くだらよりもランクが上だという認識があったのかもしれません。

とにかくこの頃の日韓関係も、かなり複雑だったようです。この頃の朝鮮半島は、北の高句麗、南に百済と新羅など、複数勢力が争っている状態でした。日本も、海の向こうの話……などとのんきに構えていたわけではなく、けっこう食指を伸ばそうとしていたとかいないとか……。

その中で、百済と日本は仲が良かったようで……のちには、その援軍要請に応えて、聖徳太子の実弟・来目皇子くめのみこが征新羅大将軍として送り出されてもいます(結局、朝鮮半島には渡しませんでしたけどね…)。

聖徳太子をドアップにして観られました。平安時代後期の描写力は、半端ないですね。やさしげで柔和な表情もですが、衣服の柄までしっかりと表現されています。

画像の左下で平伏しているのが百済くだら国の王子ということでしょう。ブーツのような靴を履いていますね。馬に乗って来られたのでしょうか……と思いつつ、視線を左にスライドさせていくと……

百済くだら国の王子が乗ってきただろう、立派な馬と配下の人たちが描かれています。難波津(大阪)に上陸して、舟から馬へ乗り換えて、飛鳥まで来たのでしょうか。

数え27歳の時(600年)には、甲斐国(今の山梨県)から黒駒……黒い馬が献上されたそうです。これによって、ひとまず大和朝廷が甲斐国までは東進していた……平定していた可能性が高いですね。

そして同年には、先述したとおり聖徳太子の実弟・来目皇子くめのみこを征新羅大将軍に任命して、25,000の兵を、難波津から送り出しました。ただ、来目皇子くめのみこは九州に到着後に病死。その後、さらに聖徳太子の別の弟を大将軍にしますが……こちらは難波津を出てすぐに、奥さんが亡くなったという報を受けて、悲嘆から、戦争どころではなくなってしまったそうです。なんとも人間的で良いですけど、実話だったらすごいですよね。その後、

この場面が、『聖徳太子絵伝』の1・2面の最後のシーンになります。

■富士山山頂付近を飛行する姿が描かれている3・4面

二組目…3面と4面

『聖徳太子絵伝』の2・3面では、6歳の頃の逸話から描かれているのですが、その前に目につくのが、『絵伝』の右上に配置されている富士山でした。しかも、富士山の山頂近くを未確認飛行物体が飛翔しています……もちろんこれが数え27歳の時(600年)の聖徳太子です。

1・2面は、「甲斐国から黒駒が献上された」というエピソードで締められていましたが、それを受けての、今回の黒駒による東国への旅と、富士山上空の飛行ということでしょう。

黒駒の献上で、甲斐国までは大和朝廷が平定していたことが予想されますが、天皇を補佐する摂政せっしょうが富士山上空へわざわざ行く理由は……単なる旅行とも思えません。

富士山の上空から、何を…どの方向を眺めたのか? 望んだのか? が重要になってきます。もし甲斐国(山梨)まで平定していたとすれば……逆に言えば、信濃国(長野)や駿河国(静岡)あたりは、まだ平定しきれていなかったとも考えられます。もしくは神奈川県の足柄峠や碓氷峠の坂よりも東側(ざっくり箱根より東側)……の坂東ばんどうエリアが未統治だったと推測します。つまり蝦夷えみしだったのではと。(ただし考古学では、5-6世紀には、倭が東北南部まで広がっていたとするのが、定説のようです)

聖徳太子の富士山旅行は、そういう意味があっただろうなと。

征新羅のためには、25,000の兵を動員したとも言います(大げさだと思いますが……)。その征新羅が頓挫した……頓挫したのではなく、中止にした可能性もあります。朝鮮半島にかまっていられる状況ではなくなり、坂東平定に動き出したのかもしれませんね。

そして『聖徳太子絵伝』の二組目(3・4面)は、数え6歳の時(579年)に話が戻ります。この時に「大別王おおわけのおおきみが、経典や僧尼を、百済くだら国よりもたらす」と解説にあります。そんなエピソードの主人公でもある大別王おおわけのおおきみは、あまり資料が残されていないのか……歴史上ではメジャーなキャラとは言えませんね。

森郁夫著『わが国における初期寺院の成立』には、日本書紀に、次のような記載があるといいます。

「冬十一月庚午朔、百済国王還使大別王に付けて経論若干巻、并びに律師、禅師、比丘尼、咒禁師、造仏工、造寺工六人を献る。遂に難波の大別王の寺に安置す。」

現在で言うところの仏師や宮大工なども連れてきたということで、これから大きな寺院を建てるぞ! という意気込みだったことがうかがえます。

そしてここで描かれている聖徳太子は、かなり痛みが酷いのですが、拡大していくと八の字の眉毛が確認できました。どうやら八の字の眉毛は、絵伝での聖徳太子のキャラ付けのようです(上の画像)。

絵伝の二組目では、その後、数え10歳で「蝦夷の侵攻について群臣が討議するのを聞く」や、数え13歳で「蘇我馬子が百済国からもたらされた、弥勒菩薩像を安置する」というエピソードが続きます。どうやら蝦夷との内戦と同時並行で、仏教を推進していったようです。

そして……数え14歳の時(587年)におこった大事件が描かれています。物部守屋もののべのもりやなどの排仏派によって、宝塔や仏像が破壊されてしまうのです。

(2023年2月6日追記)なお、Wikipediaの物部守屋の項には、次のように記されています。

敏達天皇14年(585年)、病になった大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。天皇はこれを許可したが、この頃から疫病が流行しだした。守屋と中臣勝海(中臣氏は神祇を祭る氏族)は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣を剥ぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち/つばきいち/つばきち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。

Wikipedia

ここらへんも、絵の損傷が激しく、かなり近づかないと、詳細が分かりません。逆に絵に鼻がつかんばかりに近づくと「うぉお、物部守屋もののべのもりやはやりたい邦題やっちゃってるなぁ〜」となります。仏塔の中にあったものを引き出して、屋根の上からぶん投げてしまっています。日本の支所の大規模な廃仏活動と言えるでしょう。そして、これも後の伏線となっています。

ところで、忘れていたのですが、絵伝の二組目(3面・4面)になっているので、また時代が、聖徳太子の父が用明天皇として在位していた頃に戻っています。そして数え16歳の時に、その用明天皇が崩御し、数え17歳の時には用明天皇のあとを継いだ叔父の崇峻すしゅん天皇に「傷害の相があることを占う」のですが……これは占いではないですよね……。前述のとおり、直後の数え20歳の時(593年)には、蘇我馬子がこの崇峻すしゅん天皇を暗殺し、推古天皇を擁立。数え21歳の時(594年)には、摂政となり、蘇我馬子とともに推古天皇を補佐することになるのですから……蘇我馬子の、崇峻すしゅん天皇を暗殺しようとする企みを、聖徳太子が知っていた……もしくは察していたとしても不思議はありません。

そして下の写真は、数え19歳の時(592年)の「戴冠の儀式」と説明が記されていますので、推古天皇が即位したということです。

写真の中央左側の白い顔の八の字眉毛の人物が、聖徳太子でしょうか……それとも来賓でしょうかね。何人かの僧侶の姿も見えるので、仏教的な儀式が開催されたのかもしれません。

絵伝の二組目では、このあともエピソードが続きますが、写真での紹介は割愛します。ちなみに解説には「蘇我馬子、慢心した東漢直駒を殺す」、「黒駒に乗って東国にあそび富士山頂を飛ぶ」、「勝鬘経を講ずると大蓮華が降るというめでたいしるしがあらわれる」、「岡基宮において法華経を講ずる」、「兎田野で狩猟をする推古天皇に不殺生の戒めを説く」、「病の蘇我馬子のために僧尼千人を出家させ、 自ら戒を授ける」という、数え43歳(616年)までの逸話が続いています。

ここまで書いて、まだ半分も説明できていないことに愕然としましたw 冒頭で記した通り、順序だって描かれているためではないため、理解しようとすると頭の中が混乱してきます。

『聖徳太子絵伝』の残り部分については、次回にまわすことにします。絵伝の三組目や四組目では、四天王寺が建立されたり、排仏派の物部守屋もののべのもりやとの合戦が描かれていたりと、けっこうダイナミックなビジュアルが多くなっていきます。

16歳 排仏派の物部守屋と合戦する
22歳 四天王寺を建立する


この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?