トーハク東洋館でググッと来た、中国の花鳥画(02)
前回の続きで、東洋館4階の8室「中国の絵画」の部屋で見てきた作品をnoteしておきます。現在、同室は「花鳥の美」という、16世紀以降の中国近世で描かれた作品が集まっています。
最もググッときたのは、前回noteに記した、王岡さんの《四季花鳥図巻》という花鳥図でした。今回は、その王岡さん以外の、「これは!」と思った作品たちです。
■展示概要
テーマ:花鳥の美
場所:東洋館8室「中国の絵画」の部屋
期間:2024年3月19日(火) ~ 2024年4月21日(日)
この部屋の全体の解説を読むと「花と鳥は、それぞれに吉祥の意味があり、華やかな外見が目を楽しませることから、古来、絵画の主題として愛されてきた」そうです。そして16世紀に一世を風靡した宮廷画家の「呂紀画風」、その呂紀の伝統をふまえて新境地を開き、日本画壇にも影響を与えた「沈銓(南蘋)画風」、18~19世紀の瀟洒な「文人画風」の作品を展示し、明時代から近代にかけての着色花鳥画の歴史を紹介していくとしています←ほぼ解説文のコピペになってしまいました。
そして今回noteしていくのは、ここで言うところの「文人画風」ということになります。抑えておきたいキーワードは、「没骨法(もっこつほう)」という輪郭線を描かない画法。あとは、没骨法とはどれほど関係があるのか分かりませんが、「陳淳」という明時代の画家を私淑していた人が多かったことです。(残念ながらトーハクには、陳淳の絵は所蔵しておらず、複数の"書"しかないようです。
■西洋画法を学んだ、崔鏏(さいけい)さんの作品《花卉図冊》
年代順に紹介していこうと思ったのですが、今回の崔鏏(さいけい)さんの作品《花卉図冊》は、1723年に描かれたということで、同じ18世紀に活躍したとはいえ、前回の王岡さんよりも前に活躍した人のようです。生没年は不詳なので、ちょっとはかぶっていたかも。
解説パネルには「崔鏏(さいけい)さんは、襄平(遼寧省)の人。清の宮廷画家である焦秉貞(じょうへいてい)や郎世寧(1688~1766)に西洋画法を学んだ」とあります。中国の清朝も、基本は鎖国していたと聞いていましたが、この頃には西洋画法を教える人がいたんですね。上の絵は、輪郭線を使わない没骨法(もっこつほう)で描かれているとあります。
■女流画家の陳書さんによる《花卉図冊》
前項の崔鏏(さいけい)さんの絵から、10年後に描かれたのが陳書さんが1733年に描いた《花卉図冊》です。
解説パネルには「陳書は嘉興(浙江省)の人。清時代前期の有名な女性画家で、花卉図をよくしました」とだけ記されています。もう少し知りたいなぁと思いましたが、日本語では詳細を知ることができるネット上の記事がなく……中国語版のWikiを見てみました。
「陳書」を中国簡体字では「陈书」と記し、字は南楼で、复庵または上元弟子、南楼老人と号していたそうです。南宋の宰相である陳康伯の家系に連なる、浙江省秀水(現在の嘉興)の名門出身の女流画家です。
とても繊細で細い線とやわらかい彩色が印象的です。中国版Wikipediaによれば、さらに「陳書は人物、山水、花鳥などを得意とし、その画風は清らかで高雅であり、古人に匹敵するものであった」とべた褒めしています。そして晩年には「主に山水画に専念」していたとしています。ちなみにトーハク展示の《花卉図冊》は、彼女が亡くなる3年前の、73歳前後に描かれたものです。
《花卉図冊》というくらいなので、今回展示されている作品以外にも、複数の花卉図があるだろうと思って調べてみたら、やはりトーハクに収蔵されていました。ColBaseでも見ることができますが……なぜかモノクロです。そのほかトーハクには、彼女が描いた《倣陳淳水仙図巻》があります。こっちも見たかったなぁと思わせてくれるような作品なのですが、ColBaseで見られます。ちなみにタイトルの《倣陳淳水仙図巻》は、「明代の陳淳に倣(なら)って描いた水仙の図巻」ということになります。前述した中国語版Wikiにあった「古人に匹敵するものであった」とする「古人」とは、この陳淳を想定しているのかもしれませんね。
さて、彼女が画家として有名になったのは、息子の錢陳群が、かの清王朝の乾隆帝から信頼されていたからのようです。息子が母の絵について乾隆帝に話したのでしょう。以後、陳書の作品の相当部分は宮廷に収蔵され、現在は北京の故宮博物院と台北の国立故宮博物院に所蔵されているそうです。
なるほどねぇ……他にも、夫を早くに亡くしたため、家計のために絵を売り、彼女一人で息子を育てあげ、よく舅姑の世話をし、近隣の貧しい人を助け……などと記されていますが……この部分は彼女が亡くなったあとに息子により書かれた、彼女に関する伝記に記されたもののようです。「錢陳群は母親の伝記を書き、彼女を儒教の道徳的模範と賞賛」とあります。
■《花卉図冊》奚岡・清時代・乾隆59年(1794)
奚岡(字は純章、号は鉄生)は、歙県(きゅうけん・安徽省)出身で、詩書画印をいずれも善くしました。本冊では、輪郭線のない没骨法(もっこうほう)で、水気のある墨と淡彩を巧みに用い、牡丹や蓮花、海棠(かいどう)などの様々な草花を表現しています。
海棠(かいどう)ってなんだろう? って思ってしらべてみたら、日本ではハナカイドウがそれに当たるようです……と言っても微妙に異なるのかも。
ハクモクレンでしょうか。この絵だけは彩色されていません。アメリカ人が作品の前を通りかかった時に、「これはまだ未完のようだね」と言っていましたが、わたしはこの作品が一番好みです。
■陳鴻寿《雑画冊》
次の《雑画冊》を描いた陳鴻寿さんは1768~1822年の人で、当作品を描いたのは清時代の嘉慶22年(1817)とあります(49歳前後)。日本でいえば、葛飾北斎が57歳前後で脂が乗った時期……渡辺崋山や歌川広重も20代前半で、そろそろ業界で台頭してくる頃となります。
出身は、現在の浙江省の銭塘という町。書画・篆刻にすぐれた文人だったそうで、解説パネルには「美しく繊細な色彩と卓抜した感覚の構図をもつ本図冊には、その才気が横溢します」とあります。また、明代の陳淳と清代の惲寿平という、花卉をよく描いた著名な先人を意識した一図なのだとしています。陳淳さん、人気者ですね。
■花卉図扇面
次の作品は真然さん(1816~84)が1872年に描いた《倣陳淳花蝶図扇面 TA-600-1》です。集めているから当たり前なのですが、またまた「陳淳さんに倣って描いた花蝶図の扇面」です。そして輪郭線のない没骨法(もっこつほう)によって描かれています。
■清朝末に活躍した張熊(ちょうゆう)の《花卉図扇面》
さらに時代が下って1875年に、張熊(ちょうゆう)さんという方が、75歳前後で描いた《花卉図扇面》です。1875年といえば、日本は明治の7年。張熊さんより20歳くらい年齢が若いですけれど、高橋由一さんが『花魁』や『鮭』、『豆腐』、『鯛』など、様々なものを油絵で写実的に描いてドヤっていた頃ですね。
解説パネルには、張熊(字は子祥、号は鶏湖外史)は秀水(浙江省)の人……とあります。このnoteの最初の方で書いた、女流画家の陳書さんと同郷ということになります。
「徐渭以来の輪郭を描かない没骨法による花卉図ですが、ここでは墨の代わりに美しい色面が使用されています」とあります。「墨の代わりに色面」とあるので、色面というのも絵具なのでしょうけど……どういうものなんでしょうね。
■朱偁(1826~1900)
朱偁(しゅしょう)さんは、嘉興(浙江省)の人ということです。やたらと現在の浙江省の出身の文人画家が多いですね。解説パネルには「張熊(1803~86)を学び」とありますが……「張熊に学んだ」わけではないのですかね。色彩豊かな花鳥画をよくし、上海画壇で活躍したそうです。
こちらの枝葉には輪郭線がしっかりと引かれていますが、その輪郭線を感じさせないような自然さがあります。また鳥に関しては没骨法で描かれているようです。使い分けていたんでしょうね。なんかオシャレな感じがします……説明できる根拠はありません。
ほかにも、おしゃれな色彩の花卉図扇面が2点あったのですが、それらは個人蔵ということで、実際に展示室で見てもらいたいということのようです。
ということで、東洋館8室のレポートは以上になります。
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