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国宝『聖徳太子絵伝』を間近で見たら、合戦図の迫力が凄かった!…というお話(後編)

東京国立博物館トーハクにある、法隆寺宝物館には、明治時代に法隆寺から皇室に献納された、約300件の宝物(法隆寺献納宝物)が収められています。

そんな法隆寺宝物館に、新たな常設展示室「デジタル法隆寺宝物館」が、2023年1月31日に開室しました。展示期間がかなり限定されてしまい、なかなか見られない貴重な絵画作品の、複製品を展示するためのスペースです。

さっそく、現在展示されている『国宝 聖徳太子絵伝』の原寸の複製品を、観覧してきました。その最終編です。

<過去関連note>
『国宝 聖徳太子絵伝』の原寸の複製品について記した、前回、前々回のnoteは下記になります。

■物部守屋との合戦を詳細に伝える四組目

四組目(7面と8面)

前回noteなどで何度か触れた、仏教推進派……推仏派の蘇我氏と、排仏派の物部氏との戦いの、最終章「丁未ていびの乱」が描かれているのが、『聖徳太子絵伝』の四組目(7面と8面)です。

二組目(3面)に描かれていた、聖徳太子が数え14歳の頃におこった排仏派の物部守屋もののべのもりやによる、宝塔や仏像の破壊活動。今回は、その物部守屋もののべのもりやを、数え16歳の聖徳太子が蘇我馬子の元に駆け寄って、参戦しています。

四組目(7面と8面)の5分の1くらいのスペースを合戦図に使っています

この時、聖徳太子は数え16歳。まだ摂政にも皇太子にもなっていませんが、聖徳太子としては蘇我馬子に賭けた…という側面もあったでしょう。というのも、仏教推進派と排仏派の戦いは、欽明天皇の子供たち…聖徳太子の父親や叔父たちの権力闘争の側面もありました。つまりは、ここで敗れれば、欽明天皇の孫世代の戦いに敗れてしまうということでもあります。

物部守屋との合戦描写

画面左側が物部守屋もののべのもりやの屋敷です。物部もののべ氏は、代々軍事を担ってきた氏族。蘇我氏の軍勢は、三度物部氏を攻めて、三度とも撃退されてしまいます。

その敗れた際には、近くの信貴山しぎさんに後退して陣営を整えていました。そして『聖徳太子が戦勝を祈願されるやいなや、毘沙門天王がご出現されて戦勝の秘法を授けられた。勝利した太子は「信ずべし貴ぶべき山」として信貴山と名付けられ、毘沙門天王を祀られたとされています。』と、信貴山 朝護孫子寺の田中法主が、インタビューに答えています

物部守屋との合戦描写
物部守屋との合戦描写

躍動感のある合戦図で、「おぉ! 聖徳太子の時代は、こんな装備で闘っていたのか!」と、はじめに思いましたが……いやいや、そんなわけはなく、女性が十二ひとえを着ているなどと同様に、これは絵伝が描かれた平安時代の武装でしょう。

上の写真は、屋敷を守っている人たちなので、物部氏の軍勢かと思われます。ただし、大和朝廷の軍事を担っていたとは思えないほど、物部氏の軍勢は、甲冑の着用率が低いです。もしかすると、蘇我氏&聖徳太子の軍勢が、奇襲したという想定なのかもしれませんね……と、勝手に脳内合戦をしてしまいます。

物部守屋との合戦描写

どちらの軍勢か分かりませんが、この方などは、赤字に黒丸の扇子を持っています。後の旗指物や紅白ではありませんね。

物部守屋との合戦描写
物部守屋との合戦描写

■動物の描写が上手です

『聖徳太子絵伝』を描いたのは、平安時代後期の画家、秦致貞はたちしんという方です。

平安時代の中期、延久元年(1069)の夏、法隆寺では、かつて太子の斑鳩宮があったという東院伽藍の一郭に、聖徳太子の事績を顕彰するための絵殿えどのが、七丈屋に特別に建造されました。

この一大プロジェクトのために、既に太子信仰の長い歴史をもつ四天王寺から招かれた絵師が、秦致貞はたちしんということ。また聖徳太子の尊像である「童子形御影(木造聖徳太子坐像)」を、信貴山の仏師・円快がつくり、秦致貞はたちしんが彩色を施しました。

この秦致貞はたちしんさんについては、それ以上に知られることは、ほとんどありません。これだけの大作を、法隆寺から任せられたにも関わらずです。

数え18歳、牛飼いに穀倉の鍵を与える

『国宝 聖徳太子絵伝』を観るのではなく、絵画として、この絵伝を見ていくと、その一線一線の筆致が、とても丁寧だなと思わされます。どのくらいの期間で、この大作を完成させたのか分かりませんが……集中力が極端に続かないわたしからすると、これを一人で描き切ることができるものなのか? などと思ってしまいます。

また『聖徳太子絵伝』の中には、上の写真の通り、牛や馬、犬や鹿など様々な動物も描かれています。特に合戦図の馬の躍動感には見惚れるものがありました。

ほんと、秦致貞はたちしんって何者なんだろう? と思います。

数え18歳、牛飼いに穀倉の鍵を与える

さて、数え33歳になった聖徳太子は、山城楓野かどのにあそぶ

数え33歳、山城楓野かどのにあそぶ

解説には「楓野」を「かどの」とふりがながふってありましたが、本当にそう読むものなのかは……不明で、一般的には「かえでの」と読んでいるようです。

これがいったい何処なのかと言えば、京都の広隆寺が、その場所だったようです。

『聖徳太子伝暦』には太子の楓野別宮(かえでのべつぐう)を寺にしたとする別伝を載せる。推古天皇12年(604年)、聖徳太子はある夜の夢に楓の林に囲まれた霊地を見た。そこには大きな桂の枯木があり、そこに五百の羅漢が集まって読経していたという。太子が秦河勝(はた の かわかつ)にこのことを語ったところ、秦河勝はその霊地は自分の所領の葛野(かどの)であると言う。秦河勝の案内で聖徳太子が葛野へ行ってみると、夢に見たような桂の枯木があり、そこに無数の蜂が集まって、その立てる音が太子の耳には尊い説法と聞こえた。聖徳太子はここに楓野別宮を営み、河勝に命じて一寺を建てさせたという。この説話は広隆寺内の桂宮院(けいきゅういん)の由来と関連して取り上げられる。

Wikipedia「広隆寺」より
(右側)数え37歳、夢殿において七日七夜の瞑想を行なう
(左側)薨後22年、蘇我入鹿、太子の子孫を襲撃し、諸王子、法隆寺五重塔より昇天する

■ついに、聖徳太子が亡くなる……

一つ前の三組目の後半……数え48歳で摂津国から献上された人魚を禍のきざしと見たり、同49歳で宴を設けて群臣に物を与えるという行動を取ったり、同49歳で天に赤色の雲が現われ、太子や大臣はこれを怪しんだりと、なんとなく良くないことが起こりそうな予兆がありました。

そして四組目には、数え50歳で聖徳太子は、斑鳩宮いかるがのみやで奥さんの后とともに薨去こうきょしてしまいます。亡くなったということです。奥さんと同時に亡くなるというのが、怪しさを感じますが……(奥さんが登場するのも初です)。

亡くなるシーンで、聖徳太子の姿は見えません。ただ、斑鳩宮いかるがのみやで、嘆き悲しむ大勢の人たちが描かれているだけです。

そして画面の左下の広いスペースを使って「太子と后を科長陵に葬る」シーンが描かれています。山間を、悲しみに肩を落とした人たちによる葬列が進みます。

数え50歳、太子と后を科長陵に葬る
数え50歳、太子と后を科長陵に葬る
数え50歳、太子と后を科長陵に葬る

「数え33歳、山城楓野かどのにあそぶ」の時にも乗っていた、鳳輦ほうれんのようなに輿こしに乗せられて、科長陵しながのみささぎ……墓地へ向かっているようです。

Google Earthより 斑鳩宮(法隆寺)から科長陵しながのみささぎ(推定地)

こうしてGoogle Earthで葬列が通っただろう道のりを見ると、『聖徳太子絵伝』で描かれている情景に似ている気がします。現在、科長陵しながのみささぎとされる場所は、大阪府南河内郡太子町の叡福寺の境内にあります。漢字では「磯長墓(しながのはか)」もしくは「磯長陵(しながのみささぎ)」。お母さんの穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこと、奥さんである后の膳部菩岐々美郎女かしわで の ほききみのいらつめとの三人で合葬されていると考えられています。

Google Earthより。叡福寺の境内と背後の「磯長陵(しながのみささぎ)」
「磯長墓(しながのはか)」の入口……宮内庁の管理なので、中には入れません

■魂だけ中国へ飛んでいく聖徳太子

四組目(7面と8面)で、聖徳太子が亡くなってしまいますが、五組目(9面と10面)では、改めて数え9歳からの聖徳太子が描かれています。この五組目では、主に仏教関連のエピソードが集められています。

特に解説はないのですが、五組目(9面と10面)の右下の端には、その前の8面での聖徳太子の薨御を引き継ぐように、市民が悲しんでいる様子が描かれています。

葬列を見たからなのか、もしく聖徳太子の薨去こうきょ(死去)を伝え聞いたからなのか、泣き崩れる市民がいます。都人だけでなく、市民にまで聖徳太子の威光が届いていたということでしょうか。

そして数え12歳の聖徳太子が、「難波館において百済国より来朝した僧日羅に会う」というエピソードが描かれています。その逸話を表しているのが、下の写真になります。

中央左側は、数え12歳、難波館において百済国より来朝した僧日羅に会う
右上にそびえるのが四天王寺。数え22歳の時に建立した
難波館において百済国より来朝した僧の日羅にちらに会う

指定されたあたりを見てみると、たしかに若き聖徳太子が、誰かを謁見しているようです。ただし、平伏しているのは、僧ではなく文官のようです。これは百済くだら国の使者ではないでしょうか。

難波館において百済国より来朝した僧の日羅にちらに会う

ここは絵の破損が少なく、聖徳太子がはっきりと視認できます。そして、聖徳太子が座っている建物の庭に、9人の子供たちの前に立って、なにか話しかけているおじいさんが見られます。こちらが百済国より来朝した僧の日羅にちらではないかと思います。

難波館において百済国より来朝した僧の日羅にちらに会う
難波館において百済国より来朝した僧の日羅にちらに会う

その難波館の門の前には、日本の文官のほかに、百済の人たちが地に膝をついて、役人や日羅にちらを待っているようです。

そして、同じ難波館の塀の際には、聖徳太子と思われる子どもが、指を指して駆け出しています。このシーンに関しては、解説がないので、なにを表現したのか分かりません。

難波館の塀際を、指を指して進む聖徳太子と思われる少年

その後、数え22歳で四天王寺を建立します。同24歳では「淡路島南岸に霊木が漂着する」とあります。

そして数え36歳の時には、小野妹子が隋の衡山こうざんへ行き「三老僧に会う」シーンが描かれています。

数え36歳、小野妹子、隋の衡山にいたり三老僧に会う
数え36歳、小野妹子、隋の衡山にいたり三老僧に会う

ここからは、今ひとつ理解できていないことを書きますので、(その他の文章もですが)わたしの文章をまるっきり信じることなく、あくまで参考適度に読んでいただければと思います。

聖徳太子は、前世で中国の衡山こうざんに僧として居たと言います。その頃に、学んだ経典の一つが法華経でした。ひるがえって、現世で聖徳太子は、百済から来日した恵慈えじ法師と、経典を研究し、解説書などを執筆していました(勝鬘経しょうまんぎょう義疏ぎしょなど)。

ある時に法華経を見ていると、「あれ? この文章は、一文字が抜けています」と恵慈えじ法師に言います。すると法師は「いや、これで間違いありませんよ。ほかで見た法華経も、この通りです(文字は抜けていません)」と言います。でも聖徳太子は、絶対に文字が抜けていると譲りません。そこで恵慈えじ法師は「太子はんは、(その一文字が入った法華経を)いずこで見られはったんでっしゃろ?」と聞きます。すると聖徳太子は、「わたしは中国の衡山こうざんで読みました。今でも衡山こうざんには、その法華経があるはずです」と答えたと言います。

どうやら、小野妹子は隋の衡山こうざんへ派遣したのは、その一文字が抜けていない法華経を持ち帰らせるためだったようです。

そこで小野妹子は衡山こうざんへ行きますが、一度目は、聖徳太子が求めたものを、手に入れられませんでした。聖徳太子に報告すると「ちゃんとわたしが指定した僧に会ってきてほしい」と言って、翌年にも小野妹子を衡山こうざんへ派遣します。でも、心配で仕方のない聖徳太子は、魂だけが衡山こうざんへと旅立ちます(下の画像)。

それもあってなのか……小野妹子が隋の衡山こうざんに着くと、「三老僧に」会えたというのが、上の画像です。この「三老僧」が、聖徳太子が指定した僧侶なのでしょう。

数え37歳、魂を青龍車に乗せ、衡山へ前生所持の経を取りに行く
数え37歳、魂を青龍車に乗せ、衡山へ前生所持の経を取りに行く

その他のエピソードは、ちょっとまだ咀嚼できていません……というか、ストーリーを知らないと、理解できませんね。太子前世譚には「六度生まれ変わり、三塔三石を立てる」や太子前世譚には「太子の前世である慧思と達磨和尚が問答し、その後達磨が東の空に去る」……そして薨後2年には、「新羅・任那国の使いや中国僧が来朝して仏像・仏舎利等を献ずる」とあります。この最後の「新羅・任那国の使いや中国僧が来朝」というのだけ、意味が明快ですね。なぜ、仲の悪かった新羅国や、この頃には既に滅んでいたと思われる任那国の使いが来るのか、または中国僧とは、随の僧のことか? などの不明点はありますけど……。

薨後2年、新羅・任那国の使いや中国僧が来朝して仏像・仏舎利等を献ずる

そして、わたしには唐突と言えるのですが、これで『聖徳太子絵伝』は終了します。

年の順に記されているわけじゃない『聖徳太子絵伝』を説明するのは、とてもむずかしいですね……へとへと。しかも、ネット上においては、わかりやすく解説している資料が見つけられませんでした。どのサイトを見ても、断片的というか……トーハクの資料にしても、閲覧者が納得するような理解が得られるようには記されていないように感じられます。

また、この逸話の描かれている並びが、どうやら「逸話の発生した場所」によって描き分けされているようなのですが……その慣れない描き方によって、どう説明または解説すればよいのか……とても困難だろうと想像できます。もしかすると、映像で解説すると、もっと分かりやすいのかも……。

もっと『聖徳太子絵伝』に対する理解を深められたら、また解説にチャレンジしたいと思います。

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