見出し画像

今村紫紅の傑作《熱国之巻(朝之巻)》を見てきました! @東京国立博物館

今村紫紅さんの作品の中で、わたしが最も好きなのが《熱国之巻》。初めて見たのは、少なくとも2年以上前のことです。その長い絵巻を見た時に「これは、やべぇ〜もんが来ちまったなぁ」と、「Dr.STONE」の千空のようにワクワクしました。

ということで、またじっくりと見たいものだと思いつつ、まぁ2023年に東京近代美術館で開催された、特別展『重要文化財の秘密〜問題作が傑作になるまで』でも見たのですが……特別展の内覧会だと、1人でじっくりと作品と対峙するのは難しいので……今回トーハクで、2年以上ぶりに再会しました。やっときましたぁ〜! という感じです。


■今村紫紅さんの傑作《熱国之巻(朝之巻)》

今村紫紅さんは、明治13年(1880年)に、提灯屋さんの三男として、横浜で生まれました。そして15歳のときに、山田馬介という画家にターナー風の水彩画を学び始めたと言います。ここで「え? 今村紫紅さんが水彩…洋画を学んでいたの?」と、意外にも感じますよね……紫紅さんは日本画家というイメージがありますから。でも、紫紅さんのお父さんは、実は伊豆の出身なのですが、横浜では輸出向けの提灯を商っていました。ということで、おそらく海外志向の強いお父さんによって「どうせ絵を学びてぇってんなら、洋画にしろ!」と……江戸弁ではなかったでしょうけど……言われたのか、洋画だったら家業にも役立つから習ってみろと言われたのかもしれません。

ただし、その後は兄の勧めで、兄と共に松本楓湖さんという日本画の先生に師事しました。この先生の自宅であり画塾「安雅堂画塾」は、浅草栄久町という場所にありました。調べてみると、今の田原町駅と蔵前駅の真ん中あたりの、住所だと寿(ことぶき)だといいます。氏神様は浅草の三社ではなく鳥越神社です。

松本楓湖さん自体のことは残念ながら知りませんが、その弟子には、今村紫紅さんのほかにも速水御舟さんがいました。

と思ったらですね…現在トーハクでは、松本楓湖さんの作品が展示されていました!(さっき行ってきたら展示されているのに気がついて、うわっ! この人か⁉︎ って驚きましたw)

『牛若』(部分)
松本楓湖筆|明治時代・19世紀|絹本着色
《牛若》
松本楓湖筆|明治時代・19世紀|絹本着色

1907年(明治40年)というから、紫紅さんが27歳の時には茨城県五浦の日本美術院研究所を訪れ、岡倉天心(覚三)の指導を受けます。その時に、岡倉天心から「君は古人では誰が好きですか」と訊ねられると、当時はあまり名前が知られていなかった「(俵屋)宗達です」と答えた……という逸話がWikipediaに記されています。さらにびっくりなのですが、この時の会話が「宗達が再評価されるきっかけとなった逸話としても知られる」そうです。へぇ〜×10。

その後、岡倉天心の推薦で原富太郎……横浜の三渓園のオーナーである原三溪から支援されるようになります。そして大正3年に、インド旅行の資金を援助金の前借りの形で原三渓から受け取ります(Wikipediaには1年分とありますが……給料制だったんですかね?)。

Wikipediaには、当作のことが以下のように記されています。

2月23日に神戸を出航し、3月20日にビルマのラングーン(現ヤンゴン)に到着、カルカッタ(コルカタ)に15日滞在した。インドでは記載の不備のため上陸許可が降りず、船上や波止場から写生したとされる。ここに描かれた熱国がどこの国か特定するのは難しいが、「朝の巻」はシンガポールやベナンの水上生活者に、「夕の巻」はガンジス川支流に臨むカヤに取材しているものと考えられる。単純化されたモチーフ、明瞭な色彩とふんだんな金砂子の眩いばかりの光の世界は、日本画の表現方法がもつ可能性をふくらませた。

旅行から帰国すると《熱国の巻》を完成させて、再興第一回院展に出品。原三渓に千円で購入されました。今の金額で、100万〜400万円くらいです。

そんな金額で購入した原三溪ですが、本作品を「非常の努力の作に候」としているものの、「紫紅君の一代の悪作」であり、「三渓園の宝庫に来ることは余り気持ち好からず候」と書いていたそうです……(三上美和『原三溪の美術家援助』より)。※詳細後述

1894年(明治27年・14歳):日清戦争→下関条約
1904年(明治37年・24歳):日露戦争→ポーツマス条約
1910年(明治43年・30歳):8月に日韓併合条約調印&発効。横山大観が中国旅行→《楚水の巻》《燕山の巻《長江の巻》
1911年(明治44年・31歳):11月から清国で辛亥革命
1912年(明治45年・32歳):2月に清国崩壊
1913年(大正2年・33歳):藤田嗣治 渡仏(27歳)
1914年(大正3年・34歳):今村紫紅が3月にインド旅行→9月に《熱国之巻》 。7月に第一次世界大戦開戦
1915年(大正4年・35歳):2月〜サンフランシスコ万博。横山大観、今村紫紅、小杉未醒、下村観山が東海道を京都まで行脚→《五十三次絵巻》。前田青邨の朝鮮旅行→《朝鮮之巻》
1916年(大正5年・35歳):今村紫紅 歿(享年35歳)

この今村紫紅の旅行の際に描いたスケッチについては、なぜか国立近代美術館に所蔵されていて、先述した同館の2023年の特別展『重要文化財の秘密〜問題作が傑作になるまで』の開催時期に、常設展にて展示されていました。

わたしの中では、今村紫紅さんは、とんでもない巨匠のようなイメージなのですが……残念ながら《熱国之巻》を描いてから1年後くらいに35歳で亡くなっています。死因については、Wikipediaによれば「酒による肝臓病と脳溢血のため」としています。なんだか、明治大正に活躍した……まだ描かれてから100年前後しか経っていないのにい重要文化財に指定されている画家たちって、けっこう若くして亡くなった方がちらほらいる印象です。惜しいですね……。

それにしてもトーハクは、《熱国之巻》を2巻とも所蔵しているんですよね。もう1つは《夕の巻》もしくは《暮の巻》なのですが……今回の《朝の巻》は、ここ数年で3回も見たというのに……、《暮の巻》は、まだ見かけません。さらに悪作だという評価でもいいから、トーハクで展示してもらいたいものです。(もしかすると、他の館に貸し出して、展示したことはあるかもしれないですけどね)

■《熱国之巻》を千円で購入した原三溪のボヤキ

然るに小生はこれは紫紅君一代の悪作にして脱線の甚敷はなはだしきものと存知ぞんじそろ 大観 観山 安田 平櫛 内藤伸 何人も小生と同論にそろ
一 色彩の猛烈に赤色なるは火事の如く候 余り狂に候 人は線香の包紙に類するか故に線香と呼ひ候
一 余り広き大きなる長き南国の景色を 一時に此巻に入れんと望みたるため恰もあたかも風俗の錦絵の如く描写細密に過き 繊弱に陥り却て雄大熱烈の気を失し候
一 浪の不調和可驚おどろくべきそろ 小生は支那の繍物模様か支那の蒔絵の様に感するほかは何物も不感かんじずそろ
此かこれが三渓の宝庫に来ることは余り気持ちからす候 三渓

最後の一文「此かこれが三渓の宝庫に来ることは余り気持ちからす候」が強烈ですね。

<関連note>


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?