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全米ベストセラー作家の神経学者が語る、記憶と物忘れの仕組み。『Remember 記憶の科学』試し読み

4/21発売の白揚社新刊『Remember 記憶の科学』より、試し読みをお届けします。

昨日のランチに何を食べたか、どうして思い出せないのか?
認知症による物忘れと、年齢相応の物忘れの違いとは?

先週見た映画のタイトルは何だっけ? どうしても思い出せなくて苦悶する――そんな経験はないでしょうか? でも、大多数の人はそうした物忘れを心配しなくても大丈夫。記憶はすばらしい能力だが完璧とは程遠いのだ、と著者ジェノヴァは語ります。

脳が記憶するメカニズムから、記憶力増進の秘訣、物忘れの仕組みまで、記憶と忘却について誰もが抱く疑問を、全米ベストセラー作家で神経学者でもあるリサ・ジェノヴァがユーモアたっぷりに解き明かします。ニューヨークタイムズのベストセラーリストにも入った話題作の登場です。

それでは、冒頭の「はじめに」の抜粋をお楽しみください。

【試し読み】はじめに

 1セント硬貨を思い浮かべてみてほしい。これまでに、数千回とは言わないまでも、おそらく数百回は見たことがあるはずだ。どんな硬貨かは難なく思い出せるに決まっている。記憶に焼き付いているはずだから。

 だが、はたしてそうだろうか? 表に描かれた大統領は? 大統領は左右どちらを向いている? 本当に? 鋳造年が刻まれた場所は? 書いてある言葉は「自由(リバティ) 」、それとも「われわれは神を信じる(イン・ゴッド・ウィ・トラスト」? 裏面のデザインは? いますぐ記憶だけに頼って、1セント硬貨の表裏両面の絵を細部まで正確に描いてみてほしい。確かに記憶しているはずなのに、こんなに少ししか思い出せないなんて、そんなことがあるだろうか? まさか、記憶力に問題が生じたなんてことは……?

 大丈夫。あなたの頭はこれでも、やるべき仕事をちゃんとこなしているのだ。

 人間の脳は驚異的だ。脳は毎日、無数の奇跡を起こしている。見て、聞いて、味わって、匂いを嗅いで、触れている。痛みを、喜びを、温度を、ストレスを、さまざまな感情を感じ取っている。脳は計画を立て、問題を解く。いま空間のどこにいるかを脳が把握してくれるおかげで、壁に突き当たることもなければ、道路を渡ろうと歩道から足を踏み出す際に転ぶこともない。脳は言語を理解し、言語を駆使する。チョコレートが食べたい、セックスがしたいといった欲望を仲介し、他人の喜びや苦しみに共感する能力を生み出し、自己の存在への気づきをもたらす。そして脳は、記憶することができる。脳が起こす複雑で驚くべきあらゆる奇跡のなかでも、飛び抜けてすばらしいのが記憶だ。

 何を学ぶにも記憶する力は欠かせない。記憶力がなかったら、情報や経験を保持できない。新しく知り合った人も、ずっと見知らぬ他人のままだ。記憶力がなかったら、この文を読み終わる頃には、あなたは一つ前の文を忘れてしまうだろう。あとで母さんに電話しようと覚えていられるのも、今夜寝る前に忘れずに心臓病の薬を飲めるのも、記憶のおかげである。服を着て、歯を磨き、このページを読み、テニスをし、車を運転するのにも記憶が必要だ。朝起きた瞬間から夜寝る瞬間まで、あなたは記憶をフル活用している。いや、寝ているあいだも、記憶は休みなく作られているのだ。

 人生の大切な事実や瞬間が数珠つなぎになり、あなたの人生という物語と、あなたという個人のアイデンティティーが創られている。記憶があることで、自分がだれで、これまでどんな人間だったかという感覚が保てる。アルツハイマー病(アルツハイマー型認知症)のせいで個人的な歴史をはぎ取られた患者さんを目の当たりにしたことのある人は、人間的な暮らしをす
るという経験のために記憶がどれほど重要か、痛感しているに違いない。

 だが日常生活のあらゆる場面に関わる、奇跡的で不可欠な存在でありながら、記憶は完璧からは程遠い。人間の脳は、人の名前を覚えたり、時間が経ってから忘れずに予定の行動をとったり、出合うものすべてをカタログに収めて覚えておくようにはできていない。不完全極まりないが、そもそもそういう初期設定なのである。どんなに優秀な頭の持ち主であっても、記憶に関しては誤りを免れない。円周率10万桁以上の暗記を成し遂げた人でも、奥さんの誕生日を失念したり、なぜ居間に来たんだっけと途方に暮れることがありうるのだ。

 それどころか、私たちの大半は、明日になれば今日経験したことの大部分を忘れてしまう。それが積み重なればどうなるか? 私たちは、人生のほとんどを覚えていないことになる。去年1年間のうち、詳細に至るまで具体的に記憶している日が何日あるだろう? たいていの人は、平均8日から10日しか覚えていない。最近経験した出来事のうちの、3%にも満たない量だ。5年前となると、さらに日数は減る。

 しかも覚えていることの大半は、抜けがあって不正確だ。なかでも出来事の記憶は、省略や意図しない書き換えにさらされやすい。ケネディ大統領が暗殺されたとき、スペースシャトルのチャレンジャー号が爆発したとき、あるいは2001年9月11日にツインタワーが崩壊したとき、どこにいてだれと何をしていたか、ご記憶だろうか? こうしたショッキングで心を揺さぶられる事件の記憶は、何年経っても鮮明に覚えているような気がするものだ。だがあの日のことを一度でも話したり、読んだり、ニュースで見たりしていたら──有り金全部賭けてもいいが、あなたが自信たっぷりに脳内にとどめている詳細にわたるその記憶には、実際には経験していないことが山ほど盛り込まれているはずだ。

 正確かどうかはひとまずおくとして、脳はどんなことを覚えているのだろう?

 ファーストキス
 6×6の答え
 靴ひもの結び方
 息子が生まれた日
 祖母が亡くなった日
 虹の色
 自宅の住所
 自転車の乗り方

 では、脳がまず間違いなく忘れていることは?

 10回目のキス
 水曜日の晩ごはん
 スマホをどこに置いたか
 小学校5年生のときの担任の先生の名前
 5分前に初めて会った女性の名前
 数学の方程式
 ゴミ出し
 Wi-Fi のパスワード

 なぜファーストキスは覚えているのに、10回目のキスは覚えていないのだろう? 覚えていることと忘れてしまうことを分ける条件は? 記憶のはたらきはきわめて効率的だ。端的に言えば、人間の脳は意味があることを覚えておくよう進化した器官だ。意味がないことは忘れるのである。実際、日々の生活の多くは、日課となった、取るに足らない習慣的な事柄で占められている。シャワーを浴び、歯を磨き、コーヒーを飲み、勤務先に行き、仕事をし、昼食を食べ、帰宅し、夕食を食べ、テレビを見、ソーシャルメディアにだらだらと時間を費やし、寝る。毎日毎日、そのくり返し。先週どの服を洗濯したかなど覚えていない。それでいいのだ。たいていの場合、忘れた内容は解決しなければならない問題などではない。

 10回目のキス、先週の洗濯物、水曜日のランチ、それに1セント硬貨の表のデザインを思い出せなかったところで、たいしたことではないという点には、おそらくだれもが同意するだろう。こうした瞬間やディテールは、特別重要なわけではない。ところが私たちの脳は、気にかけている大事なこともよく忘れてしまうのである。私はできれば娘が延滞している図書館の本を忘れずに返したいし、どうしてキッチンに来たのだったか覚えておきたいし、メガネをどこに置き忘れたか思い出したい。どれも私にとっては大事なことだ。こういう類のうっかりは、忘れるほうが脳にとって効率がよいからではなく、記憶の形成と想起を助けるのに必要な材料を脳に与えなかったために起きる。こうしたありふれた物忘れは、脳の作りが引き起こす、正常な現象だ。だが大事なことをうっかり忘れたときに、これが正常だとはなかなか考えられない。たいていの人は「記憶の取扱説明書」に通じていないからだ。記憶のプロセスがどのようにはたらくかがわかれば、記憶力を高め、物忘れを減らすこともできるかもしれない。

 たいていの人はうっかり忘れを気に病むが、物忘れのほとんどは性格上の欠陥でも、病気の症状でもなく、心配すべきことですらない。当然覚えているはずのことや、若い頃には思い出せたことを忘れるたびに、私たちは心配し、恥ずかしく思い、恐怖に駆られる。記憶力は年齢とともに低下し、失望の種となり、やがては失われるのだという考えが頭を離れなくなる。

 神経科学者であり、『アリスのままで』(古屋美登里訳、キノブックス)の作者でもある私は、10年以上前から、世界各地でアルツハイマー病と記憶に関する講演を行っている。講演のたびに必ず何人もがロビーで私を待ち構えるか、トイレで私の前に立ちふさがるかし、自分の記憶力や忘れっぽさに関する不安を訴えてくる。多くは、いま現在、あるいは過去に、親や祖父母や配偶者が認知症を患い、深刻な記憶障害が引き起こす惨状や悲嘆を目の当たりにした方々だ。そのために、ネットフリックスのパスワードを忘れたり、ティナ・フェイが主演した映画のタイトルが思い出せなかったりすると、もしやこれは、あの逃れられない病魔に自分もまた蝕まれつつある兆候ではないかと心配になるのである。

 忘れることが怖いのは、加齢やアルツハイマー病が恐ろしいからだけではない。ほんのわずかでも記憶する能力を失うことが恐ろしいのだ。記憶が人間の機能やアイデンティティーの中核をなしているからこそ、忘れっぽくなり、言葉をど忘れし、鍵やメガネやスマホを置き忘れるようになったときに、不安がせり上がってくるのだ──「私が私でなくなってしまうのでは
ないか?」と。思わず恐怖に駆られるのも無理はない。

 たいていの人は不倶戴天の敵のように物忘れを忌み嫌うが、忘れることは、乗り越えなければならない障害ではない。しっかり覚えておくためには、忘れることが欠かせないことも多い。それに、たまに物忘れをするからといって、記憶力が落ちたことにはならない。確かにイライラはさせられるものの、忘れるのは、人間であれば当たり前のことなのだ。記憶の機能の仕組みを知れば、困った失敗も軽く受け流せるようになる。また、よくある間違いや誤った思い込みをなくしたり、うまく避けたりすることによって、物忘れの多くを防ぐ方法もわかるようになる。

 名前や駐車場所、今日のビタミン剤を飲んだかどうかをなぜ忘れてしまうのか、記憶はどのように形成され、想起されるのか、そしてなぜ物忘れは起きるのか──物忘れは病気のせいではなく、脳の進化の仕方に原因があるということ──を私が説明すると、客席からは決まって、ふうっと安堵の息が漏れる。こうした情報を知った聴衆のみなさんは、目に見えて安心し、感謝の表情を浮かべる。不安が解消され、記憶との新たな関係性を胸に会場を去っていく。知ることで、エンパワーされるのだ。

 記憶を理解し、記憶が機能する仕組みを学び、記憶の驚異的な威力ともどかしいほどの弱点を──潜在的なスーパーパワーと記憶本来の脆弱性を──知ることで、記憶力を格段にアップさせられると同時に、防ぎようのない物忘れが起きてもさほど動揺しなくなる。経験に基づいて相応の期待をすることで、記憶力とのよりよい関係を築けるようになる。もう記憶を恐れる必要はない──そう気づくことで、あなたの人生は一変するかもしれない。

本書の目次

はじめに

第1部 どのように記憶するのか
1 記憶の作り方入門
2 注意を払おう
3 いま、この瞬間の記憶
4 マッスルメモリー
5 脳内ウィキペディア
6 エピソード記憶

第2部 なぜ忘れるのか
7 起きたことの記憶は間違っている
8 のどまで出かかってるのに
9 やることリスト
10 記憶の敵は時間
11 忘れられる幸せ
12 正常な老化現象
13 アルツハイマー病

第3部 記憶力を伸ばすもの、妨げるもの
14 文脈で覚える
15 ストレスの影響
16 睡眠をとろう
17 アルツハイマー病を予防するには
18 記憶のパラドックス
まとめ 記憶のためにできること

著訳者紹介

リサ・ジェノヴァ
作家、神経科学者。ベイツ大学で生物心理学の学位、ハーバード大学で神経科学の博士号を取得。
世界各地で神経疾患について講演を行うかたわら、テレビやラジオなど数々のメディアに出演。TED トーク「アルツハイマー病を予防するためにできること」は800 万回以上視聴されている。著書『アリスのままで』(キノブックス)は世界的なベストセラーとなり、ジュリアン・ムーア主演で映画化されてアカデミー賞(主演女優賞)を受賞した。

小浜 杳
翻訳家。東京大学英語英米文学科卒。書籍翻訳のほか、英語字幕翻訳も手がける。訳書に『人はなぜ物を欲しがるのか』『ライズ・オブ・e スポーツ』(以上、白揚社)、『サーティーナイン・クルーズ』シリーズ(KADOKAWA)、『WILD RIDE(ワイルドライド)』(東洋館出版社)ほか多数。

『Remember 記憶の科学』紹介ページ


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