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5/2刊行予定『忘却の効用:「忘れること」で脳は何を得るのか』冒頭部分を公開

私たちは記憶をよくしたいとか、物忘れをなくしたいとか、とかく記憶力を強化することに注目しがちです。しかし、「忘れること」にも脳にとっては非常に重要な役割があることが最近の研究によって明らかになりつつあります。

・過剰に記憶力がいい自閉症の症例から忘却の役割について何がわかるか?
・暗記が苦手な医師が、どうして名診断医になれたのか?
・認知症の画家の作品から、創作と忘却の関係について何が言えるか?
・記憶と忘却はパーソナリティにどんな影響をおよぼすのか?
などなど常識を覆す興味深いエピソードとともに、注目されつつある「忘却の科学」の最前線を描いた本書から「プロローグ」をお届けします。

『忘却の効用 「忘れること」で脳は何を得るのか』

プロローグ

実際、フネスは、あらゆる森の、あらゆる木の、あらゆる葉を記憶しているばかりか、それを知覚したか想像した場合のひとつひとつを記憶していた。
しかし、彼には大して思考の能力はなかったように思う。考えるということは、さまざまな相違を忘れること、一般化すること、抽象化することである。

ホルヘ・ルイス・ボルヘス「記憶の人、フネス」〔『伝奇集』(鼓直訳、岩波書店)より〕

 記憶に関する専門医という立場上、私の耳には、ものを忘れること(忘却)の話題ばかり飛び込んでくる。私の患者たちは病的な忘却を伴う病気を抱えていることが多いので、当然の健康不安を口にしているのだが、私が忘却の話を聞くのは患者からだけではない。ほとんどの人がその話をするのだ。多くの場合、正常な忘却について愚痴をこぼしている。正常な忘却というのは私たちに生まれつき備わっている機能であり、身長などの形質のように、もともと個人差がある。私は、人びとのこうした愚痴について不満を言っているのではない。私自身、自分の忘れっぽさにいらいらすることもあり、おかげで患者に寄り添った助言ができるのは医師として光栄なことだ。実を言えば、若いころに記憶に興味を持ったきっかけは自分の忘れっぽさだった。それで学問的な興味が湧き、専門教育を受けて職業とすることになったのだ。もっと記憶力がよかったらいいのに、と思わない人などいるだろうか? 記憶力がよければ、試験でいい成績がとれるし、読んだ本や観た映画の内容を正確に覚えていられる。あるいは、詳細な情報をすらすらと並べて、討論で相手を言い負かしたり、豆知識や詩で人の心をとらえたりすることができるのだ。

 忘却は記憶システムの不具合、つまりとにかく問題だというのが長らく科学の共通認識だった。そのため、科学研究では次の二点を解明することに重点が置かれてきた。一つは、脳がどのように記憶を形成し、貯蔵し、呼び起こす(想起する)のか。そしてもう一つは、どのように記憶のスナップショットが撮られ、処理され、分類されるのか、だ。忘却が役に立っている可能性を直観的に理解している科学者もいるが、多くの場合、屋根裏部屋にしまい込んで色褪せた写真のように記憶が薄れていくことは、記憶のメカニズムの異常や記憶のもろさの表れと見なされる。こうした標準的な見方では、記憶力を向上させることが、つねに立派な目標とされるのに対し、忘却は防ぐべきこと、必死に立ち向かうべきことだとされており、この見方が私の医師としての教育やキャリアの指針となってきた。

 私は三五年以上、記憶について研究している。ニューヨーク大学実験心理学科の学生だったとき、感情がどのように私たちの見るものや物事を記憶するやり方にバイアスをかけるか、という研究テーマで論文を書いた。それは私にとって初めての論文で、卒論になった。コロンビア大学でM.D./Ph.D. 課程〔医師免許と医学博士の両方を取得するための特別な課程〕の学生だったときには、記憶の研究者であるエリック・カンデルの研究室で働いた。カンデルは、神経細胞(ニューロン)が記憶を形成する仕組みをさまざまな動物モデルで研究し、それに関する発見の功績によって二〇〇〇年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。その後、私はコロンビア大学でポスドク(博士研究員)となり、現在アルツハイマー病の優れた臨床医で遺伝学者でもあるリチャード・メイユーとともに、アルツハイマー病や記憶障害を伴う病気を研究した。それ以降は自分の研究室を持って、アルツハイマー病といった、人生の晩年に記憶障害を引き起こす病気の原因や治療の可能性を追究することに全力を注いできた。

 年を取ったら忘れっぽくなるとはいえ、私たちが過去の物事を忘れることができるのはありがたいことだ。そう言えるのは、記憶を扱う多くの研究者や医師と同じように、私も忘却について誤解していたことがわかったからだ。神経生物学や心理学、医学、コンピューター科学における最近の研究によって、忘却に対する理解は明らかに変わってきた 。今では、忘却は正常な現象ということにとどまらず、私たちの認知能力や創造力、精神的安定にとって、さらには社会の健全性にとって役に立つことがわかっている。

 本書は、私がキャリアを通じて助けようとしてきた、病的な忘却を患う何百人もの患者に捧げるものだ。病的な忘却は神経変性疾患によって引き起こされることが多いが、単に老化(加齢)そのものが原因の場合もある。「病的」の医学的な定義は整理されているとは言いがたいが、正常な忘却と病的な忘却の違いを最も簡単に説明すれば、病的な忘却は記憶力の本当の悪化、すなわち現代の情報社会で充実した生活を送る能力を損なうような記憶力の悪化を示しているということだ。病的な忘却が患者に及ぼす深刻な影響をよく見て初めて、正常な忘却とは何なのかが浮き彫りになる。アルツハイマー病による苦しみを目の当たりにすると、この病気を美しく表現しようなどとは思えなくなる。たとえば、どんな物事にもよい面があるという意味のことわざ、「どんな雲も裏は銀色に輝いている」をもじって「アルツハイマー病も裏は銀色に輝いている」と口にする気など起こらないだろう。おそらくは。ともかく、病的な忘却による苦しみに日々接し、できる限り患者の身になって考えるよう心がけている私としては、この病気を美化することは到底受け入れられない。ただいずれにせよ、本書は病的な忘却ではなく正常な忘却に焦点を当てたものだ。

***

 先ほどの「もっと記憶力がよかったらいいのに、と思わない人などいるだろうか?」という問いは、むろん修辞疑問文で、みなさんもすばらしい記憶力をうらやましく感じるだろう。では、写真記憶という能力についてはどう思われるだろうか? 写真記憶は映像記憶とも呼ばれ、コンピューターのハードドライブのように、見たものを永続的に貯蔵する能力のことだ。記憶のスナップショットは、いつまでも色褪せない。つまり、その人は何事も決して忘れない。多くの人が写真記憶を夢見てきたと思うが、それが重荷になりうることを察した人も多いのではないだろうか。写真記憶の事例は神経学の記録にときどき登場するが、本物の事例は、実際にはほとんど存在しない。非常に背の高い人がまれにいるように、生まれつき記憶力が抜群によい人も少数だがいる。特定の分野のプロは、並外れた記憶力を頼りにしている。たとえば、グランドマスターのチェス駒の配置に特化した記憶力、コンサートピアニストの楽譜に特化した記憶力、プロテニス選手の手足の動きに特化した記憶力などは、この世のものとは思えないほどだ。また、記憶の達人や記憶の魔術師と呼ばれる人びとは、認知機能を利用した記憶術や元からある才能を活用し、練習を重ねて、特定の情報カテゴリー──経験的な情報、数字、名前、出来事など──に対する非凡な記憶力を養う。しかし正式な検査をしてみると、本当の意味での写真記憶ができる人は誰もいないということが判明している。何も忘れないなどという人はいないのだ。

 以上からわかるように、写真記憶というのは実際には虚構の能力、つまり超能力である。では、写真記憶は誰もがうらやむような能力なのだろうか? そうではないという理由を科学が示す前に、小説が早々と答えを提示した。その最も優れた例は、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『伝奇集』に収められている短編の「記憶の人、フネス」だ。主人公のフネスは、馬に振り落とされて意識を失う。脳に障害を受けた彼は、目覚めたあと、何事も忘れることができなくなっていた。今やフネスは、ありとあらゆる物事を一瞬で記憶し、思い出すことができる。ほとんどの読者は、この物語を読み始めた段階では、それをうらやましく思う。というのも、超人的な認知能力を新たに授かったフネスは、少し前に読んだ本の長いくだりを暗唱したり、新しい言語を(ラテン語さえも!)ほんの数日でマスターしたりすることが難なくできる、と書かれているからだ。しかし、フネスが精神的カオス状態にあることがわかってくると、フネスへの羨望は同情に変わっていく。一例を挙げれば、フネスが隣人のブドウ園で生産されたワインをグラスで勧められたとき、彼の心は記憶の洪水にのみ込まれる。ワインは、それにまつわる膨大な記憶をよみがえらせるうえ、その一つ一つに事細かな情報が伴っている。たとえば、ワインにする果汁を搾ったブドウについては「ブドウ棚の若芽、房、粒」の情報がついてくるのだ。この何から何まで思い出せる能力は、フネスを恐怖に陥れる。哀れな苦悩するフネスは、過去にとりとめもなく思いを馳せることなどない。過去の出来事について人から尋ねられると、たとえ子ども時代のすてきなある日の午後についてでも、見たすべての雲の形、感じた温度の一分ごとの変化、自分の手足の一つ一つの動作といった、その日のささいな事柄がよみがえり、フネスの心に過度な負担がかかる。それで読者はいくらもしないうちに、物事を完全に想起する能力は悪夢になりかねないと気づかされる。

「記憶の人、フネス」の特筆すべき点は、超高解像度の写真を撮って貯蔵する心が思考をどのように損なうかについて、神経科学に先んじて的確に示したことだ。フネスの物語では、彼の写真記憶によって引き起こされる、ある特徴的な認知障害の話題が多く出てくる。それは一般化ができないこと、言い換えれば、木を見て森を見ずになってしまうことだ。この小説には次のような一節がある。「彼は鏡に映った自分の顔や手にいちいち驚いた。……『犬』という一般的な言葉が、大きさや形のさまざまな数多くの異なる個体を包括的に指すということが理解できなかっただけではない。三時一四分に(横から見た)犬も、三時一五分に(前から見た)犬も、同じ犬という名前で呼ばれることに戸惑った」。写真記憶の能力を持つのは非常に辛いもので、若いフネスは、あえて明かりもつけず物音一つしない部屋に引きこもって残りの人生を過ごすことになる。

 この一〇年ほどのあいだに、ようやく新しい研究がまとまり始め、記憶と釣り合いの取れた忘却が自然に備わる真の認知能力であるということが明らかにされつつある。絶えず移り変わり、恐ろしくて辛いこともある世界で生きるため、私たちに与えられた能力が忘却なのだ。「忘れられる権利」が、二〇一一年にヨーロッパの裁判所で法的に認められた。この裁判ではインターネット上の情報が問題になり、永久的な記録は個人の人生に損害を与えるおそれがあるとする主張が勝訴した。それと同じくらい、脳にとって物事を忘れるのは正当なことなのである。

 これから本書で見ていくように、記憶と釣り合いの取れた忘却は、認知能力を形成していくうえで必要なことだ。すなわち、変化し続ける環境に適応できる柔軟性を得るため、頭のなかに散らばっている情報の山から抽象概念を抽出するため、木を見て森を見るために欠かせない。それに、忘却は精神的安定を保つためにも必要だ。すなわち、胸にわだかまっている憤りや神経症的な恐怖や痛ましい経験を記憶から取り除くために必要とされる。辛い経験の記憶が過剰だったり、そうした記憶の忘却が不足したりすると、人は苦痛に囚われてしまう。忘却はまた、社会の健全性を保つためや創造性を生み出すためにも必要だ。忘却が心を軽くすることによって物事同士に思いがけない結びつきが生まれ、ひらめきが訪れる。忘れることができなければ、創造力を生む空想の翼も記憶に縛られたままになるだろう。

 プロローグのはじめのほうで、「もっと記憶力がよかったらいいのに、と思わない人などいるだろうか?」と書いたが、この問いを、「何も忘れることのない写真記憶を望む人などいるだろうか?」に変えるとどうだろうか。本書を読んだあなたの答えが、「そんな人はいない」であることを願っている。【終】

■ 本の詳細ページ

目次

プロローグ
第一章 覚えることと忘れること
第二章 平穏な心
第三章 解放された心
第四章 恐れを知らぬ心
第五章 晴れやかになる心
第六章 謙虚な心
第七章 みんなの心
エピローグ 病的な忘却
謝辞
訳者あとがき
原注

著者紹介

コロンビア大学神経精神科学教授、同大学アルツハイマー病研究センター・ディレクター。アルツハイマー病および認知機能の老化を専門としており、記憶と記憶障害について140篇以上の論文を発表している。著者の業績は『ニューヨーク・タイムズ』紙や『ザ・ニューヨーカー』誌、『タイム』誌で紹介された。イスラエル育ちで、現在はニューヨーク市在住。

訳者紹介

翻訳家。京都大学薬学部卒業。企業で医薬品の研究開発に携わり、科学書出版社勤務を経て現在にいたる。訳書にスペクター『歪められた食の常識』、キャロル『科学が暴く「食べてはいけない」の噓』、ハリス『生命科学クライシス』、デステノ『信頼はなぜ裏切られるのか』、ズデンドルフ『現実を生きるサル 空想を語るヒト』(以上白揚社)、トリー『神は、脳がつくった』(ダイヤモンド社)、キルシュ&オーガス『新薬という奇跡』(早川書房)ほか多数。共訳書にイーバン『ジェネリック医薬品の不都合な真実』(翔泳社)などがある。


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