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『約束の宇宙』 好感と驚きと

原題は「Proxima」。作中で主人公たちが取り組んでいる計画の名前で、有人による火星着陸を最終目標としている。太陽系から最も近い恒星が「プロキシマ・ケンタウリ」と名付けられているが、"proxima"はラテン語で「近い」「隣接した」というような意味があるという。だからこのタイトルが指すものは今作の場合は火星ということになる。(地球に最も近くなる惑星は金星)

SpaceXを率いるイーロン・マスクは2024〜26年のスケジュールで無人および有人の火星探査を視野に入れていると言う。また主人公のサラが所属するESAは、ロシアのロスコスモスと共同での「ExoMars」という火星探査計画がある。有人の計画としてはESAの「オーロラ計画」というものがあるがこちらは火星探査の大枠のものに位置するようだ。

今作では「Proxima計画」にアメリカ人のマイクも参加しているのが気になった。つまりNASAも関与しているということになるし、スターシティの宿舎では日本人の飛行士らしき人物(バックアップクルーか?)も一瞬だけ出ていたから「オール地球」のような計画なのか。中国は出てこないが、そこはまあ無理もない。
実際にはESA、ロスコスモス、NASA、JAXAが共同しての探査計画は無いので、この描写は面白い。ある意味「そうあってほしい」というアリス・ウィンクールの思いがあるのかもしれない。

今作のことを知ったときには、まず主人公がESAの女性飛行士ということで注目していた。ESAが舞台になる映画は記憶にないので、それだけに作中で各施設が描かれたことがまず楽しかった。しかもロシアの施設(スターシティ)もしっかりめに出てきてそこもアガるポイントだ。だから監督&脚本のアリス自身の関心が強いことを感じるし、そこで主人公のサラと同調しているようでもある。あたかもドキュメンタリーのような描き方であったことに好感を持ちながら観ていただけに「あの出来事」にはガッカリしてしまったが、そこは後述する。

やはり今作はサラを演じているエヴァ・グリーンの魅力が素晴らしい。実際のところエヴァが宇宙飛行士役というのは意外だったし、ましてや母親役でもあるのでそこは注目していた。メイクは抑えめだが、そうなるとより彼女の素地にあるものが現れてくるようで、華奢な体格だけにあの訓練の大変さも強調されていた。サラと同様に彼女もまた複数のタスクをこなしているわけで、その中であのように説得力を持たせることが出来ていたのが良かった。
作中では母親と宇宙飛行士の両立の難しさが繰り返し描かれたが、つまるところ女性の社会での扱われ方の問題を洗い出している。両立できないポストに女性は就けない、ではなく両立できる仕組みを社会で考えるべきだと言っているのだ。それが火星へ行くよりも難しいとしたら何かが間違っていると思える。

サラは娘の名前をステラ、猫の名前はライカ(悪いシャレだろう)としているから、宇宙開発に対して強いこだわりがあるのは間違いない。宇宙飛行士として宇宙空間に出ることは幼い頃からの憧れだったはずで、その目標のためには家庭を犠牲にしても、という姿勢が描かれる。この場合の犠牲は制度によるものだけでなく、ステラという幼い娘が母親と長い期間離れることによるダメージのことが大きい。そこも含めてあの女性コーディネーターは指摘していたのだろう。結局は彼女もサラをよりサポートするようになるが。

そのコーディネーターと同様に態度を変えていくマイクはアフガニスタンに従軍していたUS軍人。それが巡って打ち上げのためにカザフスタンのバイコヌールに来ることを彼はどう感じただろうか。マット・ディロンの起用はいかにもな役どころで、やはり正規クルーのロシア人のアントンとは対照的な態度を見せていた。
スターシティに移ってからの厳しい訓練の中でサラは葛藤を抱えながら目標を見失わず、時に迷いながらも力強く前進して周囲を認めさせていく。ある意味予定調和ではあるが、必要な描写だと思う。宇宙飛行士というのは繰り返しその優秀さが示されてきたから。サラとのアクリル越しの対面もせつなく、すれ違いの後トイレで泣くサラにグッとくる。そして問題のシークエンス。
なんとサラは検疫隔離のための施設を抜け出して、サラと一緒にソユーズロケットを見るために外出するという暴挙に出た。そこで普通に「そうか諦めるのか」と思って驚きつつも母娘の愛を微笑ましく観ていたものだ。同時に「明日の打ち上げは無理だろうな」などとこの判断の余波の大きさを考えもした。そこからさらに驚きの展開が。なんとサラは体表の雑な消毒だけで隔離施設に戻って翌日には打ち上げられてしまう。

正直なところ鑑賞直後は「あのときの感動は何だった」となる。これまでも宇宙開発に関する作品なり、実際の数々の計画の厳格さを知ってきているだけにサラの判断はいろんなものを台無しにしてしまったと思っている。あのラストで示されたのは愛情の深さなので、そこを評価するならそれでもいいのだろう。しかし、私のような観客にとっては得るものよりも失ったもののほうが大きい。
そう思えば、この作品はたしかに「大きなものを得るためには何かを失う」物語ではある。それをメタの部分でもやってしまったということなのか。そういう意味で問題作である。

95%は好感の持てる作品だが、最後の5%との齟齬がいくつかの意味で深く印象に残った。また観たいかというともちろん観たいなと思ってるけれど。

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