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モーンガータ

 目次

 銀の星が弾けた、それを未だ憶えている。

 機械人形の身体と心を主から授かり、造られてから初めて、ほんとうに初めて瞼を開けたとき、色という色、形という形が瞳の中に襲いかかってきた。それから自分の内側で回る歯車の音が耳に入ると同時に悟った、おれは生ではないのだと。人ではないのだ、と。そして疑問に思う、さて、人とは何だ。そもそも、おれは何だ。ぐるぐると歯車――ああ、歯車とは何だ、何とは何だ――のように回る思考――思考とは?――に瞳の裏がちかちかしてきた頃、自分の方を見て顔を綻ばせている一人の人物に気が付いた。それが自分を造った人間であり、自分の主だということを悟るまでそう時間はかからず、その彼のターコイズが己の瞳とかち合うと、ほとんど無意識に言葉が口から零れて落ちた。
「――ある、じ」
「はは、やあ、第一声がそれかぁ。父さんって呼んでほしかったな」
 軽く片手を上げてそう言う己の主へ何かを言おうと思うのに、それが上手く喉元まで上がってこないのは、自分が無知で、起動するまでの間、主が自分に話しかけてくれていた言葉しか知らないからだろうか。いいや、どうやら言葉は知っている。知っているというのに上手く声にできないのだ。そのことにもどかしさを感じながら、幾度か瞬きをする。
「主の……名前、は」
 やっとのことで絞り出した言葉は、拙い音をその身に纏わせて自分の主である人の元へ漂っていった。
「カルト。僕はカルト・エクレールだよ。……おまえは自分の名前を言えるかい?」
「おれ、俺の?……名前、は……」
 何かを想い起こすかのように瞼を閉じる。己が眠っている間、何度もかけられた言葉があった。それはまるで人の心そのものを宿した響き。何度も何度も主がこちらへ言っていた言葉。
 ――ああ、そうか。あの言葉がおれの名前だったのか。あの言葉には人の心が、主の心が確かに宿っていたのだ。心というものがどういうものなのかは分からないが、おれは心という言葉を知っている。その心とやらのおかげで主はおれを造り、おれはこうして思考ができる。そのことを何故だかおれは知っているのだ。それは恐らく、ばらばらの部品の一つ一つだった頃から主の手のひら、声を通して、主の心というものを感じてきたからなのだろう。開いた口から、今度は自然に言葉が流れ出てきた。
「――犬童。俺は、犬童だ」
 それを聴くと、カルトは目を細めて穏やかな笑みを浮かべた。
「うん。おはよう、インドウ」
「……主、分からないことが山のように……山、は見たことがないが……山のようにある。こういうときは、どうすれば」
「そうだね、そういうときは――」
 カルトが何か言いかけたそのとき、工房の扉が開く音――その音を聴いて、やっと今自分が立っている場所に意識を向けることができた――が聴こえた。からんからんと軽やかな音を立てて、一人の人が入ってくる。ちかりと煌めく強い黄を湛えた瞳が、犬童とカルトを交互に眺めると、やれやれといった風に首を振りどこか呆れたかのような笑みを浮かべて呟いた。
「やぁれやれ、わっちは仲間外れというわけか。のう?」
「――カオル! いいところに来たね、ほら、目が覚めたんだ!」
「いいところ、とはよく言う。人を呼びつけておいて今の今まで忘れていたのだろう、おまえさんは……」
 だがそれももう慣れた、そう言いたいのだろう笑みを目と口元に浮かべると、カオルと呼ばれた人間はカルトに向けていた身体を犬童の方へ向き直らせ、犬童を頭のてっぺんから爪先までじいと眺めた後、からんからんとあの軽やかな音をまた響かせて、犬童の方へ近付いてきた。
「わっちの名は薫子。このようにして、人に名を問うときは己の名から名乗るべきじゃよ。――さて、そなたは何という?」
 細めた薫子の瞳から、火の粉が舞ったかのように思えた。その目には見えぬ火の粉が犬童の喉へはらはら燃えながら落ちてゆく。その火の粉は犬童の奥の方までやってきて、絡まっていた声にできない言葉の糸を燃やし燃やし、白き煙として言葉を彼の喉元まで押し上げた。それから先は、ごちゃごちゃとしていた思考と知ってはいるのに声にならない言葉に邪魔をされることなく、言いたい、そう思ったことをするりと声にすることができるようになっていた。
「犬童、だ。……薫子、カオル」
「ふむ……そなた、真に機械人形……なの、だろうなあ。機械人形のような人間にも見えるがの……」
「俺は主に造られた機械人形だ、それは間違いない。ここから歯車の音も聴こえる」
 言いながら犬童は胴体の中心辺りに右の手のひらを置いた。長い指に淡く光って見えるのは機械と機械の接合部分、薫子は燃える赤の髪を揺らしながら頷き、今一度犬童を眺めた。
「……分からないことが山のようにある、と言っておったな」
「聞いていたのか。――そうだ、何か……頭では分かっているようで、ほんとうは何も分からないような心地がする。見たこともないのに知っているものがある、聞いたこともないのに知っている音がある……どういうものかも分からないのに、してみたいことも」
 犬童は呟くように言うのを聞くと、薫子はちらとカルトの方を見てどこか意地の悪く笑った。
「まあ、ほとんどそなたの主とやらのせいじゃよ。しかし……カルトも良かれと想ってそなたに必要最低限の知識と言葉を与えたのだろう、のう――カルト?」
 ずっと犬童の起動を待ち焦がれていたカルトは、犬童が人さながらに動き話すのを椅子に座り穏やかな顔で眺めていたが、薫子にそう問われると照れたように頬を掻きながら頷いて言った。
「うん。――インドウの心臓部には半永久的に動く機械、魔法石で造った記憶装置、その奥に記憶装置と逆で、知識と言葉を記憶させた魔法石が備わっている。魔法に頼らず機械人形を造りたいって、ずっと僕はそう言ってたけど、多少は魔法の力を借りないとこればかりは難しいね」
 犬童と薫子は揃って苦いものを口に含んだような顔になった。
「……つまり、あまり難しいことは気にしないでしたいことをすればいいよ、インドウ。それも少し、難しいかもしれないけどね。おまえは人だったら気にならないことがひどく気になるようになるかもしれない。でも……だいじょうぶさ、考えることは悪いことじゃあない。それに、僕もカオルも側にいるからね」
 そう言って照れ臭そうに笑ったカルトを見、薫子もつられて柔い笑みを零す。くつくつと小さく笑った後、黄水晶の瞳が未だ多少の困惑を隠せぬ犬童の方を向いて悪戯な子どもの瞳のような光を宿して煌めいた。
「犬童、そなたはこの腐れ縁の発明家、その息子にも等しい。ふふ……どうせ切ろうと思うても切れぬ縁ゆえ。――そなたは、見たこともないのに知っているものがある、聴いたこともないのに知っている音があると、そう言ったな。では――見るか、聴くか? 知っているというもの、そして知らぬものをすべて?」
 その言葉に犬童の銀の髪が驚きを纏い揺れ、琥珀の瞳が幾度か瞬いた。
「それがカオルなら、できると?」
「おや、当たり前に決まっておる。わっちを誰と思っている?……カルト、わっちの道なき道を歩くかのような旅路のことはこやつのその――記憶装置……とやらに教えておらぬのか」
「自分で話せばいいじゃないか、カオル?」
「……それもそうじゃ」
 カルトの方へ向けた視線を再び犬童へと戻すと、薫子はその黄水晶で犬童の琥珀を真っ直ぐに捉えて謳うように言った。
「では、犬童。――世界を見に行こう!」
 犬童の瞳の中で銀の星が弾け、白い光となって彼の周りを舞い踊った。その光は、さながら月の光に照らされる白き花の輝き。薫子の揺れぬ瞳の奥で爛々と燃ゆる白き青き赤き炎の何と美しいことか。犬童は息を吸い、吐いた。こう在れと美しい形を定められた大きな岩が大地を蹴って宙へ跳ね飛び、青空の下、見る見る内に美しい色を内側に湛えながら幾多にも砕け、その石の欠片たちが繋がり一本の太く長い糸となると、今度はそれが更に解けてゆき、様々な色を宿す無数の細い糸となった。その糸は先の言葉の糸のように時折絡まりはしたがすぐに解け、頭から手足の爪先にまでまるで血管の代わりだというように犬童の中に張り巡らされた。遠い先に知ることになるが、それらの糸はすべて感情という名前をしていたらしい。犬童は口を開いた。
「……ああ、世界を見せてくれ」
「ふふ、よかろう。今よりわっちはそなた――おまえの師となろうぞ。ならば今すぐ旅に出よう、そう言いたいところだが、まあ、それよりまずは本の世界を旅することにするべきじゃな……ああそうだ、犬童、どういうものかも分からないのにしてみたいこともあると言っておったな。それは何じゃ?」
 そう問われた犬童は、薫子が瞳に宿していた悪戯な子どもの笑みを顔全体に浮かべ、薫子の手を引っ張った。カルトが椅子の上で忍び笑いをしているのを尻目に、犬童は答えの代わりだ、という風に数節の歌を口ずさんだ。胸に在る魔法石が知っていたのか、それとも自分自身が今思い付いた歌なのかは分からない。意味の分からない、また意味を成さない言葉の羅列を歌として口ずさみながら、犬童は薫子の手を取って共にくるりと回って見せた。空の色も、花の香りも、水のせせらぎも、血のにおいもまだ知らない。それでも彼は、瞼を開けてから知った色、音、香り、または知っていたすべてを、そして出会った目の前の命を寿ぐかのように歌い、踊る。瞳の中で弾けた銀の星は最早見えなくなってしまったが、それは確かに己の身体で白い光となって踊っていると彼は強く感じた。空の色も、花の香りも、水のせせらぎも、血のにおいもまだ知らない。だが、これからすべてに出会うのだというその喜びを彼はもう、知っている。


20160427
シリーズ:『貴石奇譚』〈太陽のための月〉

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