足跡日記👣§19 わたしの満足は本当に健全なのか

「相対的剰余価値(賃金に見合う以上の労働によって生み出される価値(剰余価値)のうち、生産性の向上によって起こるもの)の生産様式は(中略)、最初はまず資本のもとへの労働の形式的従属(包摂)を基礎として自然発生的に発生して育成されるのである。この形式的従属(包摂)に代わって、資本のもとへの労働の実質的従属(包摂)が行われるのである。」とマルクスは語る。(『資本論,第1巻第2分冊』(大月書店,1968 年)原書 532 頁)

 ある環境活動家が運営するゲストハウスに友人と泊まった時、友人がある動画を見せてくれた。それは某飲食店企業が、新卒社員に対し行き過ぎと思えるほどの新人研修をしている動画だった。研修において、新入社員たちは大きな声で所信声明を行い、上司への厳格な挨拶、規則的な生活の徹底が行われる。また接客応対や意見発表の際においても厳格な査定が行われ、その光景は甚だ異様であった。彼らは将に”社畜化されている”という言葉が相応しく、およそ彼らの基本的人権は無碍にされているに等しかった。しかしながら彼らは上司からの嘉賞を受けると甚く喜び咽び、心の底から満ち足りている様子だった。

 これこそ、マルクスが唱えた「資本のもとへの労働の包摂(subsumption)」の端緒である。規定された労働時間の中で、9割の鞭と1割の飴によって彼らを労働に心酔させ、労働力を向上させる。これによって会社の売上(資本)も向上し、従業員たちは心身共に、資本増大のための歯車と化してしまうのである。

 おそらくこの動画を見れば、誰もが大きな違和感と漠然とした恐怖を覚えると思う。それは多分、「自らの主体性を他者に奪われ、自らの一切の価値尺度が企業に掌握されている」と感じるがゆえのことだろう。従業員にとっての満足の欲求は会社によって惹起されたものであり、主体的・能動的に生まれたものではない。そして従業員が”満たされた”と思う事象は会社から提供されるものであり、他者にコントロールされている。そんな不健全な満足を、従業員は次第に健全な(あるべき)満足と捉えるようになり、この異様な体制は次世代に受け継がれていくことによって、全ての従業員が、際限ない資本の拡大を希求する会社を機能させる部品となっていく。

 このような資本の包摂性は、マキャベリズムにおいても、ホッブズの社会契約論においても内在しており、いつの時代でもどの場所でも影響を与えてきた。そして資本主義社会が主体となってからは、その性質はより強力になっている。そんな社会だからこそ、「自分が今思う”満足”は本当に健全/主体的な満足か」を自問する必要性が高まってきているように思う。

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