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酷い翻訳にがっかり

 この数年は年間およそ300冊を読了している。しっかり数えているわけではないが、内訳は小説が45%、それ以外が55%くらいなのではないか。

 小説はもちろん娯楽として楽しんでいるものだが、かといって「人文書はお勉強として読んでいる」ということでもない。優れた人文書に出会うことは喜びであり、その意味で「すべての読書は楽しくて仕方がない」のである。「知るは喜び、調べるは楽しみ、わかるは感動、学は一生」という“名言”をネットで見かけた。その通りだと思う。ちなみに「この言葉の出典は不明」なのだそうな。

 ある人文書を図書館で借りた。外国人の学者?がある分野について人類の壮大な歴史から書き起こしているもので、予約していたのがようやく回ってきたものだ。

 ところが、翻訳が酷い。もう冒頭数行からさっぱりアタマに入ってこないのである。

 「英語を習い始めたばかりの中学生かよ」と突っ込みたくなる。こうなると、楽しみにしていた本文よりも「この文章の翻訳はどこがまずいのか」ばかりが気になってしまって、ますます内容がわからなくなる。結局まえがきから本編にはいったところで放り出してしまった。購入していたら意地でも読了しようとしたのだろうか。そうするとそこで浪費する時間と気力も併せて大損害である。早々の損切りは大正解だろう。

 私は書籍編集者ではないし、自ら翻訳業へ乗り出そうとしているわけでもない。それでも「どうしてこんな翻訳にしかならないのだろう」「これを出版社の担当編集者はどうにかしようとは思わなかったのかな?」と考え込んでしまった。

 ま、こうしてnoteのネタになったので、あの翻訳文に悪戦苦闘した数十分も無駄ではなかった、ということにしておく。
(24/4/13)


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