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中滑川─ちょっと前の記憶と現在と

富山県滑川市。私の住む海沿いの町に「中滑川」という駅がある。
頭に「中」がつくあたり、町の中心駅をアピールしているような趣がある。

実際、旧市街や市役所へは徒歩数分という利便であり、宇奈月温泉へ向かう特急列車の停車駅でもある。(もっとも、コロナ禍を経て特急列車自体ほとんど無くなっているけれど)

もともとは商業施設や農協を併設した大きな建物だったが、ここ15年ほどで駅舎の建て替えがあったり、跡地に防災拠点を兼ねた複合施設「メリカ」が建ったりと、目まぐるしい変化があった。

私は2023年10月に滑川市民となった。その前から、パートナーが滑川の歴史を研究対象としていたこともあり、町のなりたちと現在の姿はなんとなく把握できてきた。
そして、私の鉄道好きのエゴイズムは多少あるにしても、町の歴史の象徴として中滑川駅の今昔があるように思った。

ローカル鉄道と旧市街。
成熟したクルマ社会で、これらは市民生活の脇役となりつつある。
その現状をよみときながら、私なりに未来を考えてみた。

以下、過去について記した部分は、私個人の記憶頼りも大いに含まれる。引用がないかぎり、だいたいの事実でしかないということを了承願いたい。



滑川を走る鉄道の、おおまかな歴史


富山県富山市。富山駅から東に伸びる鉄道は2つある。

ひとつは、新幹線のできる前、大都市へゆく特急列車が往来したJR線を引き継ぐ第三セクター、あいの風とやま鉄道。

そしてふたつめ、様々な目的により建設された小私鉄を統合し、立山山麓や黒部峡谷へ線路を伸ばす富山地方鉄道。地鉄(ちてつ)とも呼ばれる。

一応、「あいの風とやま鉄道」という名前の由来を、公式サイトより引用。

社名の由来

「あいの風」とは、春から夏にかけて吹く北東のさわやかな風で、古く万葉集の時代から豊作、豊漁等「幸せを運ぶ風」として県民に親しまれています。
この「あいの風」のように県内を東西に横断し、県民に豊かさ、幸せを運び届けることができる鉄道、また、利用者との「出会い」を大切にし、県民に「愛」される鉄道を目指したいという姿勢を表すものです。

あいの風とやま鉄道について


あいの風線は特急が行き交った名残で直線が多いルートをとり、富山駅と、隣の滑川市とを20分前後で結ぶ。
一方、地鉄は内陸の小都市、集落を縫うように、こまめに停まりながら進むため、滑川まで30~40分かかる。
運賃も、地鉄はあいの風の1.5倍程度。滑川から富山市へ電車で出ようとするとき、あいの風線を選ぶ人がほとんどと思う。


[富山~滑川間の2つの鉄路。○は駅を示す。滑川市から魚津市まで 約10㎞ にわたり、両者は並行する]

あいの風線はかつてのJR線。さらに昔は国鉄と呼ばれた。
国鉄のころから、都市間の輸送を第一目的として、関西へ、関東へ、新潟・東北へと、急行列車や貨物列車が往来した。
電車や電気機関車ができるまえは、旅客も貨物も蒸気機関車が引っ張った。

蒸気の煙は空気を汚す。人の住む場所に駅をつくるのは、空気が汚れるので皆嫌がった。ゆえに鉄道を作る際、当時の市街地から離れた場所に、国鉄の駅がつくられた。滑川だけでなく全国的な流れだった。

蒸気機関車はスピードを上げるのにとても時間がかかるうえ、遠いところを結ぶという目的があったので、まち1つにつき、駅を1つだけつくる形が定番だった。

それを逆手に取り、路線をつくったのが富山地方鉄道。開業当初は富山電気鉄道と呼んだ。名前のとおり、蒸気機関車などでなく、はじめから電気を通して電車を走らせた。当時の人々が国鉄を「汽車」、地鉄を「電車」と呼び分けしたほどである。

電車は加速・減速も早いので、こまめに駅を設け、各市の中心街や村落の細かな需要を拾いながら、少ないタイムロスで輸送することができた。急行でも走らせようものなら、国鉄に対し優位に立てたわけだ。

現在の滑川でも、あいの風の滑川駅と別に、旧市街に隣接する形で中滑川駅がある。
こちらは富山電鉄ができる前、立山町とを結んだ軽便鉄道によって開設されたのが最初だが、結果的に、町はずれに駅を設けた国鉄との差別化がはかられることとなった。


[滑川市街と鉄道駅の位置関係。中滑川~滑川間は 約1㎞ 離れている]


このような路線がつくられたことは、富山電鉄創業者の佐伯宗義による、以下の「並行すれども競争せず」の理論に象徴される。

国有鉄道が生活社会間の過不足を調整する生産交通に主体をおくのに対し、地方鉄道とは独立の生活交通圏の主体性を確保するものである。したがって、たとえ両者の路線が並行したとしても競争が起こるはずのない性格のものである。

「富山地方鉄道五十年史 理念編」

滑川から魚津まで、現在のあいの風線では2駅で到るのに対し、地鉄線に乗ると6駅かかる。村々にもまめに停まるあたりに、「生活交通圏」の鉄道を担わんとする佐伯理論の残り香を感じる。

しかし新幹線開業後、JRの特急列車がなくなって、あいの風は普通列車をたくさん走らせることが可能になった。従来のクルマ社会化・旧市街衰退の傾向に加え、地域輸送の役割も横取りされつつある。
そしてコロナ禍を経、地鉄は路線開業以来の苦境に立たされている。



中滑川駅と、滑川のまち


地鉄とあいの風。お互いのポジションがなんとなくわかったところで、中滑川駅とそのまわりに焦点をあてていく。
現在、中滑川複合施設「メリカ」に隣接する駅舎は、2014年に供用されるようになった。2代前の駅舎を意識した意匠だが、そのころと比べるとずいぶんコンパクトになり、[中滑川駅]の表記がなければ、住宅と勘違いしてしまいそうだ。

[現在の駅舎。左後ろに「中滑川複合施設メリカ」が建設中の頃]

では、先代の駅舎はというと。最初に述べたとおり、農協のビルや商業施設が併設された、いわゆる駅ビルのようなもので、現在のメリカの敷地を丸ごと使って建っていた。
写真がないので、イラストにてご想像願いたい。ググれば先達の撮られた写真も出てくると思う。



私にとってのいちばん昔の記憶。
「駅ビル」のなかに婆さんがやってるクレープ屋があって、小さいころ、ときどき家族に連れて行ってもらっていた。
現駅舎は住宅のよう、と口走ったが、先代駅舎もぱっと見では駅には見えなかった。

駅前ロータリーに面して、農協系のスーパーが大きな看板を出しており、駅の改札に向かうには、その右脇の屋内通路を通って奥に進む。
通路の入り口右側に写真屋さんがあって、扉をくぐった先にもテナントが並ぶ。
ただし、私の覚えているころ(2007年位?)には、その並びはクレープ屋しかやっておらず、ほとんどシャッター街だった。

そのまま奥にすすむ。視界が開け、右側、大階段を降りたところに改札広場。駅員ひとりが大きな事務室を独占していた。かつては様々な業務が人の手で行われ、この駅にも多くの職員が詰めていたことだろう。
広場を横目に、さらに2方向へ通路が展開する。床屋、美容室、「駅寿し」なるすし屋、居酒屋、元タバコ屋っぽい自販機コーナー、があった。


入口の寂しい印象のわりに、奥まったところのほうが健闘していた。

きっと、入り口のほうは本屋とか服飾雑貨とか、代えのきく物販が軒を連ねた。対し、奥の居酒屋や理美容などは、常連の支えが大きい職種ゆえに残ったのではないかな。と今の私なりに想像する。
どんな小さなまちにも、個人経営の居酒屋やスナックや理美容って必ずあるもんだし。

それから数年たち、スーパーが無くなった。倒産ゆえの突然の閉業だったと思う。けっこう頻繁にお客の出入りがあったと思うのだけど。。。

それからぱたぱたと店が減っていったのかな。美容院やクレープ屋は建て替えで追い出されてからも、別の場所で引き続き営業した(クレープ屋はすでに閉業)。

そんな具合に駅ビルは生涯を閉じたのだが、完成した当時は各テナントともお店が入り、多かった駅乗降客も相まって、さぞかし賑やかにやっていたことだろう。



一方、駅の海側に広がる旧市街は、駅ビルに先立つ形で盛衰があった。
昭和30年代ごろまで、中滑川駅から旧北国街道筋に至るエリアは、地域で一番の繁華街だった。そのころまで、まちのど真ん中といえる場所に漁港があった。周辺には漁業や市場の関係者が集住し、県下一番の人口密度を誇った。

彼らが生活するためのサービス、物販があり、商店街がにぎわった。漁業と生活とが密着した、字のごとく「漁師町」だったのだ。

滑川市HPにも当時の写真がすこし載っている。
所蔵資料紹介 Vol.6 昭和30年代の滑川

転機は昭和32年。当時の場所から北東へ約1㎞、滑川駅の側に漁港が移転した。その後、旧漁港の市場跡や、労働者が集住したバラックの解体と区画整理が行われた。

小さな川の河口を生かした港は手狭だったろうし、労働者たちも劣悪な環境で寝床をつくり暮らしていたというから、業務効率化や衛生改善の面でも移転そのものは間違いではない。
その代償に、商店街を潤わせた彼らの生活は周辺へ拡散した。

さらに昭和50年代になると、国鉄滑川駅周辺の区画整理が行われ、そばの工場跡地に商業施設をつくる計画も進んだ。現在のYELL(エール)である。

中心地はは新しいほうへと、うすくひろく拡散した。商店街の求心力はますます落ち、YELLに移転する店も現れ、次第に空洞化していった。

線路の内陸に国道8号線、さらにバイパスが整備され、郊外店で買い回るクルマ社会が成熟した現在では、旧市街の繁栄は見る影もない。

[現在の漁港跡地。舟が河口に所狭しと係留されていたそう]

自治体としても、最初から旧市街を見放したわけではない。
市がマスタープランを策定して旧市街の再整備を検討したり、県が旧街道筋(県道1号線)を拡幅しようとしたりしたが、実現しなかった。
江戸時代以来の町割りや伝統建築が、周辺のまちと比較して多く残っているのも、再整備を逃れたおかげといえる。

富山の薬売り発祥の地であるほか、米騒動をおこしたり、永代地上権という独自の地上権をつくったりと、なにかと自主的・自治的というべき滑川の市民性が、現在まで少なからず影響しているともいえる。



変わりゆく時代の中で


小さな現駅舎を包み守るかのように鎮座する、地上3階建ての中滑川複合施設「メリカ」からは、中滑川駅を発着する地鉄電車のようすがよく見える。
昼間、眺めていると、乗り降りする乗客は計2、3人、多くても5人くらいという具合で、特急も停まる市の中心駅とは思えない。

旧市街の繁栄は昭和30年代にピークを迎えた。対し、「駅ビル」を擁した先代駅舎は昭和44年の竣工。
当時は移動に公共交通を使う人が多く、商店街にも勢いがあった。
それら2つに加え、山沿いへゆく路線バスとの中継地でもあった中滑川は生活の一大交差点であったがゆえ、商業需要を大いに見込んだ駅ビルの計画も実現できたのだろう。

現在の中滑川といえば、メリカの存在が欠かせない。市の防災拠点という大きな使命を担いながら、平日・休日を問わず多種多様の集会やイベントが行われ、1階には飲食店が3つ軒を連ねる。

しかし利用者はみな、隣地に整備された広い駐車場にクルマで乗り付ける。駅が目の前にあるにもかかわらず、電車の乗降客の流れとメリカの賑わいはほとんど分断されているように思える。




ある市民は、現在の中滑川についてこう語る。

中滑川は日常的に人の流れがないから、商売をやってもうまくいかない。メリカでイベントや集まりはあっても、それから先の広がりがない。みなクルマで乗り付けて、クルマで帰っていくだけだ。

これは滑川だけでなく、クルマが普及した全国の都市にあてはまる現象だと思っている。
クルマ移動を前提に、郊外に住宅団地を造成する。ロードサイド店がつくられる。中心地が移り、旧来の市街はやがて廃れ、だんだんクルマがないと生活できないようになっていく。

クルマは目的地にしか進めない。
まちなかにお洒落な店ができたとしても、マイカー族は目的地めがけて狭い街路を自家用車で突き進み、駐車場を埋める。用事が済んだらそそくさと帰る。
コイン式なら駐車代が気にかかるし、店舗専用駐車場なら、クルマを置いたまま他店へはしごするのが憚られるからだ。

個々の店や施設に人が集まったとしても、それから先、まわりを散策しようとか、ついでにあの店に寄ってみよう、という思考がなくなる。近隣店の相乗効果が薄まる。

形は市街地を保っていても、人々の流れはロードサイドと変わりない。



中滑川駅から徒歩5分。滑川の旧市街・海沿いの瀬羽町(せわまち)という一帯では、若い世代の出店が相次いでいる。
そちらを訪ねるお客さんが一日100人いたとして、そのうち中滑川駅まで電車やバスを利用し、徒歩で来訪する者は何人いるだろうか。

店主たちもほとんどが市外に居住し、日々瀬羽町のお店まで通って営業されている。週末の午後の賑わいと裏腹に、夜は窓に漏れる明かりもない、静かな通りになる。

[日暮れの瀬羽町通り]

仕入れや家庭など個々様々の事情はもちろんある。
それにしても、旧市街が店のブランドづくりの道具として用いられているよう、というのは言い過ぎだろうか。(実際、瀬羽町のお店はみな名実ともに質が高い)
ともかく、住む場所として、旧市街は積極的には選ばれなくなった。

人々が集住し、共同体を形成するという、本来のまちの営みは、ことに地方の小都市では消え去りつつある。徒歩中心の生活が難しくなったなら、移動手段としての鉄道が選ばれることも減るわけで、中滑川駅がミニマムになったのも当然の結末といえるかもしれない。



ここまで、日本一のクルマ社会・富山の現状をすごく悲観的に述べた。
第2次産業がさかんな富山の産業構造は、多分にクルマ向きだったから、クルマ社会を全否定するつもりはない。

しかし、クルマの便利を享受することは、同時にそれまでの生活で育んだものを手放すことである、ということは一言付しておきたい。

結局のところ、少なくとも交通手段の視点では、公共交通か?クルマか?の100-0論でなく、どちらも選択できるという状態が、世の中をいちばん豊かにすると考える。



たまには、歩いて過ごしたい


富山市が推進する「コンパクトシティ」を知っているか。

交通が便利になったり、仕事の選択肢が増えたりした結果、先祖代々の土地を離れ、住みやすい都市部へ移るものが増えた。子どもが消え、世代交代ができなくなった集落から順に、廃村となってきた。
人口減少時代のいま、地方を筆頭に廃村や、その一歩手前の限界集落というやつは、ますます勢いよく増えていくだろう。

人口が少なくなると、市が市民のために使えるお金が減って、公共工事の予算が減る。道路や水道、電気等のインフラを、より少ないお金で維持しなければならなくなる。

だから、新しいインフラ整備をなるべく抑え、既存の設備をなるべく生かして市民生活を営んでいこうよ。
というのが、コンパクトシティの趣旨だ。
これまで郊外へ広げてきたまちを、徐々に畳んでいこうとしている。

富山市では鉄道駅やバス路線の近くに居住したり、開発をしたりする際、一定の補助を受けられる制度がある。
一度に多くの人を乗せられる公共交通や、それらでアクセスできる市街地を、維持すべき「インフラ」ととらえ、より多くの人に使ってもらうよう誘導している。

富山市の目指す コンパクトシティ


クルマを持てばあたかも自由の身になり、どこへでも行けるし、どこへでも住めるような気になる。けれど、行き過ぎたクルマ社会はやがて、都市の機能を蝕み、やがて自分自身の生活に返ってくる。
道路はお金こそ取らないけれど、タダでつくってるわけでも、タダで修理できるわけでもない。

クルマに乗るな、なんていわないけれど、時には家の近くを走る電車やバスを思い出してもろて、それらにのって買い物するなり、ごはん食べるなり、映画見るなり、散策するなりしにいってみるのも良い。

富山のまちなか、総曲輪のほとり座はいつも良い映画をやっている。
電車の待ち時間に、溜まっていた本を読むのも楽しい。
そしてなにより、気兼ねなく酒を飲んで帰れる。

かくいう私は、毎日クルマで職場へ出勤している。
そのぶん、休みの日はなるべくクルマを使わずに、公共交通をつかって、歩いて暮らすようにしている。そのほうが健康にもよさそうだし。
クルマに乗っていては気付かないことが、歩くとたくさんみつかっておもしろい。



さて、地鉄電車の窮状は最初のほうで述べたのだけど、全国的な人口減少のいま、大都市圏をふくめて鉄道利用者は減る傾向にある。

大手私鉄でも不動産や小売等で経営基盤をつくり、鉄道は儲からないのでついでにやっている、というような会社がざらにある。
純粋な運賃や広告の収入だけで、公共交通を維持できる時代ではなくなってきたのだ。

鉄道路線を鉄道会社だけの自助努力でなく、富山市のように公共インフラとして捉え、市民全体の財産として維持していくムーブを起こすのが大切だ。
欧州では、路線収支が赤字であっても、行政が主体となって鉄道を維持している例が多い。

富山県では2023年、JRが運営してきた城端線と氷見線を、5年後を目安に第三セクター・あいの風とやま鉄道に移管する方針とした。
それに乗じてか、富山と岐阜を結ぶJR高山線の富山県内区間も、あいの風にしようという意見も公式に出てきた。

地鉄に関しても、行政による支援が行われ、将来にわたり維持されることを期待したい。
並行するあいの風線がどれだけ便利になろうと、地鉄でしか拾えない小さな町々や集落の需要、通学需要がある。大雪でも運休しない地鉄の強さは、休校を希求する怠惰学生の敵として有名だ。
そして、年月を重ねた趣ある駅舎や、山麓をトコトコ走る風光明媚は、地鉄だからこそ味わうことができる。

中滑川駅は主要駅の面影なく、すっかりかわいい駅になった。過去ほどの賑わいは戻らないにしても、これからも滑川の玄関口の一つとして、一人でも多くの人に選んでもらえたなら嬉しい。

旧市街もきっと、昔のような大盛況には戻らない。むしろ、瀬羽町の新しいお店たちはみな、いまの鄙びた雰囲気をきっと気に入って、この場所を選んでくれている。

瀬羽町だけでなく、滑川の旧市街は細い路地や古い町並みが良く残っていて、ただ歩くだけでも楽しめる。
まずはいろんなひとに滑川のまちの魅力を知ってもらえるよう、まちなかに住む私自身もこつこつ発信していかねば、と思っている。



私は大学で都市工学なるものをかいつまんできた。
授業でことあるごとに、コンパクトシティの代表格として富山市を挙げる教授がいた。
まあ地元だし、取り上げられて悪い気はしないなと思っていたが、調べると批判的な見方をしたり、失敗と判断したりするものもあったので、なんとも複雑な気持ちだった。

卒業後、建設や飲食といった職に就いてきたが、職人が減っている、人手が足りない、という声はつねに聞こえてきた。
鉄道やトラック・バスをはじめとする物流・交通の世界も、もちろん例外でない。

エッセンシャルワークに対する投資を怠ってきたツケだ、というのももちろん事実だろうが、人口が減るだろう未来にむけ、どのみちサービスを縮小していかねばならないのも確かだ。

富山市が進めるコンパクトシティは、これからの日本の地方都市にとって大切な考え方なんだろうなあ。と、社会で働き出してやっと実感できてきた。

これまでたくさんの人々の暮らしがあった、海沿いの旧市街は依然として、空き家や空き地が増えている。

けれども、多様な生き方に対して世の中が少しずつ寛容になってきたように、
郊外に家を新築するだけでなく、旧市街の町家をリノベーションしたり、空き地に新築したりして、まちごと次世代へ受け継いでいくような流れも、もっとあってほしいなと思っている。

ここ10年ほどの間に、瀬羽町におこっているささやかな賑わいは、これから何十年とかかるだろう「まち回帰」の一歩だと信じ、私自身もその一歩に加われるように、頑張るつもりだ。

そして(繰り返すようだけど)地鉄電車や中滑川駅が、そのエントランスとして永劫ありつづけてくれたら、いち地鉄マニアとしてこれほどの喜びはない。

おわり

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