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BL小説「結ばれるのは、どちらの糸でしょうか?」

【不倫・執着・独占欲・三角関係】【読み切り・短編・読書時間20分程度】
※注:身体を重ねるシーンがやんわりあり。

【あらすじ】
 システムエンジニアとして働く清瀬舜きよせしゅんは、同期で総務部の碧生聖哉あおいせいやに密かに想いを寄せている。
 半年前に清瀬のグループへ赴任したチームリーダ・喜多見健太郎きたみけんたろうに男性が恋愛対象ということを知られてしまい、その日から既婚者である喜多見と不倫関係を結ぶようになった。
 ほとんど毎日、喜多見から会社の会議室やホテルに呼び出される清瀬。ある日、普段と同様に会議室に呼び出された清瀬は喜多見と不貞関係を結んでいるシーンを碧生に覗かれてしまい……!?

自分に自信がない清瀬は、人からの愛を上手く受け取れないし、独占したいと願ってしまう。
彼の目の前に降りてきた二つの愛の糸。彼はどちらに縛られることを望み、解き放つのか──?

全文読めます!
あとがき以降が有料です。


Ⅰ.


 鳴り響く外線電話。三コール以内で取らなければ遅いと注意される。電話機の画面が光った時点で取ることが常識と教え込まれた派遣社員の女性陣は生え抜きの社員よりも何倍も素早く電話に出ることができる。彼女たちがいなければ、きっといまでも社員は上司から注意されていたかもしれない。
 新卒で大手ⅠT通信会社のグループ企業に入社したボク、清瀬舜は社会人七年目を迎える二十八歳。三十路まで王手をかけるといった具合だ。エンジニアとしてシステムグループに配属されて一度も異動は無し。営業と違って積極的な電話応対は無いけれど、いまだに社外電話を対応することが苦手だ。在宅勤務が増えた昨今、いち早く社内チャットを導入した我が社は内線電話も減り、ボクにとってはありがたい世の中の風向きだった。
 個人チャットを受信した合図がパソコン上に表示される。それはシステムグループ第二チームのリーダー、喜多見健太郎からのメッセージだった。

『第二会議室に集合』

 個人的に会議室に呼ばれたボクの胸は刺すように音が鳴る。身体の奥に火が点けられた感じさえした。喜多見チームリーダーは半年前にボクたちのグループへ異動してきた敏腕上司。元々は営業グループのリーダーだったらしいが、役職が付く以前は技術職で功績を残してきた人らしい。歳はちょうど十歳ほど離れている。ボクと違って身長がすらりと高く、おそらく百八十センチはある。男として憧れのスタイルを持ちながら派遣社員の女性陣がこぞって色目使うくらい顔面の偏差値も高い。髪をほどよいブラウン色に染め上げ、毛先に軽やかなパーマがふんわりと柔和な印象を持たせている。比べる対象ではないけれどボクといったら一度も染めたことのない黒髪で、色気とは程遠いセンター分けの髪型だ。

『すぐに行きます』

 それだけチャットに返信すると、盗難防止であるワイヤーロックを外してパソコンを片手に第二会議室へ向かった。隣席の同僚に行先だけ告げて。
「清瀬さん、また喜多見さんに呼び出されたんですか?」
 早歩きで会議室に向かうボクの背中に届く声。なぜならボクは半年前、喜多見さんが異動してからというものの、ほとんど毎日、彼と会議室で二人っきりで仕事をしているから、首を傾げている社員もたくさんいる。
 気づかれるのも時間の問題かもしれない。ボクと喜多見さんがその会議室で本当は仕事以外のことをしていることを──。

「……失礼します」とボクは第二会議室のドアをノックして返事を確認する前にドアノブに手をかける。

「はい、どうぞ」

 見た目だけではなく声にも色気がある喜多見さんの返事が耳に届くとボクは火力をあげて身体の奥に熱がたぎるのが分かる。天板が白く塗られたマットな長机と椅子が四脚、それとホワイトボードと比較的大きめのパソコン用モニターだけがある小さな会議室へボクは静かに入る。ドアがガチャリと締まる音がすると椅子に座っていた喜多見さんが立ち上がり、ボクを正面から抱き締めた。

「グループの誰かに、清瀬がここに来ることを言ってきたのか?」

 耳が溶けてしまうような吐息が彼から漏れる。ボクは「はい、隣席の人にいちおう……」と彼の顔を見ずに言った。

「清瀬は僕とこうすることが分かってるのに、どうして誰かに居場所を告げるんだ?」

「……長い時間、離席していたら探すかと思って」

 喜多見さんはちいさく鼻で笑ったあと首筋に軽く唇を這わせた。それだけでボクの身体は待ち焦がれていた恋人と再会したときのように身体が震えてしまう。

「本当は誰かに、知って欲しいんだろ? 僕とこんな関係を結んでいることを」

「……んっ、ち、違い……ますっ」

 ボクは彼が焦ったように興奮しながら口づけする瞬間が好きでたまらない。誰かにバレてしまうことを喜多見さんもどこかで待ちわびているようにさえ思えた。だってボクとしていることは、いくら男同士だとはいえ、彼にとって不倫関係なわけだから。

「なぁ、清瀬……、ホテルでするときより、ここの会議室のほうが感じるの早いよな」

「……へ、へんなこと言わないでください。か、会社で本当はこんなことしたくないです……。仕事に、し、集中できなくなる」

 喜多見さんはボクのスーツの上着をするりと床へ落とすと、ネクタイを緩め、後ろへ回してから、ワイシャツのボタンを器用に上から片手で外してゆく。慣れた手つきにボクは嫉妬する。きっといままでもこんな風に誰かを喰っているかもしれないのに、ボクは彼から与えられる快楽に中毒性を感じてしまう。

「大丈夫。清瀬は僕とセックスしてからのほうが、業務効率上がっているから。三六協定すれすれだった勤務状態を救ったのは誰だと思ってるんだ?」

 彼の指先がひやりとボクの胸筋の上を走る。その感触だけで胸の突起は両方とも尖りをみせた。

「……だってこんなことしたって、き、喜多見さんは、ボクが……す、好きなわけじゃ……」

 奥さんがいちばんなんでしょう、と聞きたい唇を彼はいつもキスでごまかす。

「生活に満足していたら、清瀬とこんなに愛し合うことしないし」

 地獄の果てでボクの心はいつか殺されると分かっているのに。彼の口から飛び出す言葉にいちいち嬉しくなって会社にも関わらず嬌声を上げてしまうんだ。彼に双方の胸の尖りを舌先で転がされたボクはすでにスラックスの中が濡れ始めていたことに気づいた。そこに喜多見さんの手のひらがあてがわれそうになった瞬間、会議室をノックする音が聞こえ、返事をする前に中へ誰かが入って来た。

「失礼します。ここにシステムグループの清瀬さんがいるって──」

 ドアノブを持ったまま、ボクが乱れた格好でいる姿を目撃したその男は総務グループ所属でボクの同期である碧生聖哉だった。

「……き、清瀬? あ、えっと、勝手に入ってしまい、申し訳ございませんでした!」

 そう言って碧生は慌てて会議室のドアを閉めて走り去る足音を残し、消えた。

「あーあ、だから言ったでしょ? 行先告げたら、見られちゃうよって。清瀬のこんな姿、碧生くんどう思ったかな?」

 意地悪く喜多見さんが口角の端を上げて笑いながら、最後にすばやく口づけして、「じゃあ、またチャットする」と彼も会議室を後にした。

 ──碧生に見られた? ボクが入社してからひそかに想い続けている碧生に。

 俺はずるずると会議室の床にへたり込む。「言い訳を考えなきゃ……」とその考えだけがボクの脳内を強く支配した。


Ⅱ.

 翌日、出勤して自席のパソコンを立ち上げるや否や、社内チャットに碧生からメッセージが届いた。まるでボクが席に座るのを見ていたかのように。でもそうだったらちょっと嬉しいなんて思う自分もいる。結局、昨日の喜多見さんとの場面を見られたまま、何も碧生には告げずに帰った。

「……言い訳、どうしよ」

 碧生からのメッセージを開くとそこには『十時までに総務グループの島まで来て。引っ越しの手続きで聞きたいことがある』とだけ書いてあった。

「何も聞かないのか……?」

 ボクの内側でがっかりという言葉が広がった。碧生に何を期待していたのだろうか。ボクは二、三度、頭を振ってからデスクに置いてある目薬を差した。入社したときは眼鏡をかけていたけれど、喜多見さんが赴任してからコンタクトに変えた。一度、会議室で抱き合ったときに眼鏡が落ちて壊れたからだ。碧生には眼鏡掛けているほうがお前らしいとか言われたけれど、どういう意味だったのだろう。

「素顔は変ってことかな……」

 碧生はボクとは真逆の人生を送っていると勝手に決めつけている。小さいころからゲームだけが友達だったボクとは対照的に碧生はずっとサッカー部で活躍してたらしい。社内のフットサル大会にも最初の一回こそ、ボクも参加したけれど、碧生は皆勤賞だ。彼が主催で様々な部署と飲み会も開いている。絶対にボクなんかと交わらない人生を歩んでいるにも関わらず、本社勤務の同期はたった二人だけだからという理由で入社してからたびたび、同期会と称してサシ飲みしていた。
 いつだってボクは好きになってはいけない人を好きになりかけている──。
 絶対にボクみたいな、他人との関わりが苦手で、大勢で集まることが嫌いな人間を好きにならない碧生。
 そして偽りの愛をボクのような人間にもくれる妻帯者の喜多見さん。
 ボクは碧生に『始業後、十五分以内に行く』とチャットの返事をした。

 公言どおり始業のチャイムが鳴ったあと、十五分も経たないうちに碧生がいる総務グループへ向かった。東棟・西棟で区切られたフロアに総務グループとシステムグループは配置されている。ボクは西棟で碧生は東棟。エレベーターホールを挟んでいるだけだからそこまで移動に時間はかからない。

「……おはよ、碧生」

 ボクは気配を消すことが得意だ。ウイスパーボイスで声を掛けると碧生は肩を上下させて驚いた。

「なんだよ、全然気が付かないだろ、そんな声で話しかけられたら」

「……ごめん」とうなだれると同時に碧生はボクの腕を掴んで、席を立つ。そのまま静まり返っている給湯室まで引っ張って連れていかれた。

「引っ越しの書類に不備はない。というか俺が直した」

「え、ごめ……ん」

 ボクを給湯室の壁に押し付け、碧生は両肩をものすごい力で抑えている。

「知ってるんだよな? 喜多見さんが既婚者だって」

 碧生の目はどこか怒りで燃えているようにぐらぐらと揺れる。

「……ん」とボクは彼の目をまっすぐ捉えることができずに逸らしてしまう。そもそも彼と不適切な仲になってしまったのは、半年前に碧生がサシ飲みの約束を破ったからだった。喜多見さんと出会うまでのボクは碧生に叶わぬ恋心を抱いていたし、毎月の飲み会だけが暗黒のような仕事の中で一筋の光に見えていた。ボクとの飲みより、彼は合コンを優先したと聞いて、デスクで密かに泣いていたところを着任したばかりの喜多見さんに見られてしまったのがきっかけだった。

「か、関係ないだろ、碧生には。いまが楽しければそれでいいんだ、ボクは──」

 そっぽを向いていたボクの顎先を指先で掴み、碧生の顔を見るように仕向けられる。

「……清瀬、変わったな。やっぱり喜多見さんがそうさせたのか……」

 独り言のように碧生は呟いて、目を伏せた。彫の深い二重に長い睫毛がボクの心をくすぐる。

「よし、清瀬。臨時同期会するぞ。今日は残業禁止な!」

「えっ……?」とボクが返事をする前に、碧生は給湯室を笑顔で出て行った。
 今日は喜多見さんは出張でいない。きっとボクは第二会議室にチャットで呼び出されることもないだろう。
 まだ碧生が触れた顎先が熱い。胸も早鐘を打っている。

「……もう、どっちもボクのこと惑わすから、許せないよ」

 両手で顔を覆い、ボクはうるさい胸の鼓動が鎮まるまで給湯室の時計の秒針を聞き続けた。喜多見さんと関係を持ってから、碧生と「同期会」は開かれていなかった。久しぶりのサシ飲み。早く終業のチャイムが鳴る時刻がやってくることを願って。


Ⅲ.


  目の前に碧生が座る居酒屋で飲んでいる自分がいちばん好き。
 でもそれ以上に、仕事でも総務・人事として社員や会社のために尽力と優しさを惜しげもなく使い果たしたり、プライベートの時間まで同僚やたったひとりの同期であるボクにまで時間を割く心配りができる碧生のことが好き。
 同期でなかったら、ボクなんかが彼の目の前でサシ飲みできるような立場にない。同じ巡りあわせで入社できたことを神様に感謝しなければと彼を目の前にすると祈りに近い感謝が溢れる。

「清瀬、今日はペース早くないか?」

「だって……ひ、久しぶりじゃん、碧生とのサシ飲み……」

 身体がぽかぽかして頭はふわふわとしているけれど、碧生から離れたくないから、まだ飲み足りないという理由で店員を呼ぶボタンを押す。いつもなら大勢が座る卓だけれど今夜に限っては個室のほうが空いていて、ボクらは二人っきりで向かい合わせで飲んでいた。

「そうだっけ? そんなに間隔空いていたっけ?」

 オーダーを取りにきた店員に、碧生はボクのレモンサワーと自分のハイボールを注文した。呼んだのはボクなのに彼は自然と気が利く行動を取れる人間だ。

「ちょうど半年ぶりだよ? 忘れたの?」

 こんなことをしっかり覚えているなんて女々しい恋人みたいで碧生は気持ち悪いと思うかもしれない。

「……よく覚えてるな」

 照明のせいで碧生の顔に影が入り、照れた表情に色気が増している。

「覚えているに決まってる。入社から続いていた同期会なのに、急にドタキャンするから……」

 ショックだったとは言えずにボクは俯いた。

「ごめん。どうしても総務の女性陣が開く合コンの数合わせでさ。断れなくて」

 システムグループと違って碧生がいる総務グループは九割が女性だ。若い派遣社員も多く、だいたい定時で終業できるようで、アフター5は合コンに習い事に忙しいらしい。
 注文したお酒が運ばれた。ボクはジョッキを両手で持つと半分を一気に体内に取り入れる。

「……聞かないのか? 喜多見さんとの関係」

 持っていたジョッキを音を立ててテーブルへ置き、手の甲で口から零れた酒を拭う。

「……やめとけよ。あの人は」

「なんで?」

 碧生はいつになく眼差しが真剣だった。大きな瞳でじっとボクの顔を捉えている。

「喜多見さんは男女とかそういうのに節操なく、付き合っては捨てる人だからだ」

 心のどこかでは分かっていた。奥さんがいるのにボクと身体の関係があるなんて、クズな男に決まっているのに。そのことを自分で認めたくなかった。その瞬間だけでもいいからボクを見てくれる人がいることに麻薬のような中毒性で脳内と身体は満たされた。彼が傍にいない日は、クスリが切れたように渇いた心が苦しくて喜多見さんの代わりを探す行為を繰り返してしまう。

「別にボクだけなら、いいでしょ?」

 碧生はハイボールに口をつける。流れ込んだアルコールで彼のしっかりとした喉仏が上下した。ボクは思わずそれに触れたいという衝動が駆け巡る。

「……聞くんだよ、噂を。女性陣が泣かされたとかを。それに……喜多見さんの奥さんは社内の人だって知ってるよな?」

「え?」

 ボクは一気に酔いが冷めてしまう感覚に陥った。
 社内の人──?
 ボクは喜多見さんから奥さんのことを聞いたことはない。ただ彼の指には結婚指輪が光っていたのを見ていたから。

「……し、知らないよ。あの人家族の話しないし──。ただ、生活に満足していないとしか……」

 冷え切った夫婦関係だと思っていた。頭の片隅では彼が離婚してくれることを願っている。

「この前みたいに、会議室であんなことしていたら、他の社員に見つかるのも時間の問題だぞ? 知られたのが俺だったからよかったものの……」

 説教じみた口調でボクを責める碧生の声が遠くなる。すこし飲み過ぎたのかもしれない。

「……離婚してくれれば、いいのにね」

 碧生に伝わらないボクの気持ち。そんなことを言ってヤキモチでも焼いてもらいたいのだろうか、ボクは。そのあとの記憶は断片的で、タクシーに乗せられて、筋肉質な碧生の腕に頭をもたげているあいだ、このまま時間が止まればいいと思ったことは覚えている。
 次に意識がはっきりしたのは、自分の部屋の天井を見たときだった。

「気が付いたか?」

 身体を起こそうとしても言うことを聞かず、ふわふわとした気持ちよさのほうが勝っていた。

「んっ……、飲み過ぎちゃったってことだよね」

 碧生は「寝てろ」とミネラルウォーターのペットボトルの蓋を開けた。それからコンビニでもらったのかストローをセットしてボクの唇に当てる。

「いきなり気を失うように店のソファに寝るから、タクシーでここまで来たんだ」

 ひとくち水を吸うと、案外、脱水してたのかじんわりと無機質な水分が潤いをもたらす。

「……よ、よくウチが分かったね。ボクが住所を告げたのかな、全然覚えてない」

「ごめん、職権乱用かもしれないけれど……この前、引っ越しの書類を処理していたときに見たから覚えていたんだ」

「あ……。そっか」

 ふつうなら事細かに住所を覚えることはきっと不可能かもしれない。でもボクは引っ越し先を碧生が住む賃貸マンションの近所にしたからだ。理由はすこしでも碧生と会える接点を増やしたかったからだ。ボクのほうこそストーカーみたいな行為をしていたから責めることはできない。いまこうして碧生と自分の部屋に二人きりという状況になれたことのほうが嬉しい。

「なぁ、どうして引っ越ししたんだ? 前に住んでいた場所のほうが会社に近かっただろ? まさか……」

 以前、碧生が居酒屋で会計しているときに、免許証が落ちてそのときに住所を見たからなんて言えるはずがない。

「喜多見さんも、この辺なのか?」

 碧生はいつだって、ボクの気持ちに気づかない。入社して仲良くなるたびに、ボクはキミに惹かれていったのに、キミにとってのボクは「たったひとりの同期」でしかないのか。

「……碧生、水ちょうだい?」

 欲しがるボクの唇は水ではなくて、碧生の口づけを待っている。差し出されたストローを唇の先で咥えるとゆっくりと水を喉に流し込む。目線は碧生を見上げながら、心配そうな彼の表情はすこしだけ頬に赤みがさしていた。唇からストローを離すと舌先でそれをしっとり舐める仕草をする。

「……酔ってるだけだから」

 そう言ってボクは碧生の手のひらに指を絡ませる。

「ちょっとだけ碧生の匂いを嗅いでもいい?」

 繋いだ碧生の手のひらを自分の鼻先に持ってゆく。彼の指先、一本、一本に口づけをした。

「……やめろって、き、清瀬」

「やめない」

 爪と指の腹を猫が水を飲むようにちろちろと舐め続けると碧生は目を瞑り、なにかに耐えているように見えた。

「お、俺は、喜多見さんじゃないぞ、清瀬……」

「分かってる。ボクは碧生とほんとうは……」

 喜多見さんとしているような熱に浮かされた身体の関係を結びたい、と脳内で叫んだ瞬間、スマホが鳴っていることに気が付いた。一度切れても、再びけたたましく鳴り続ける。碧生との時間を過ごしたいのに、スマホの着信はそれを許してくれなかった。

「渡そうか?」と碧生はボクのカバンからスマホを取り出してくれた。

「……着信履歴が喜多見さんで埋まってるぞ」

「え?」

 酔って身体が言うことを利かないはずなのに、そんなことも忘れたかのように飛び起きて、碧生の手のひらに収まっているスマホをものすごい勢いで奪った。
 いつからかけ続けてくれたのだろうか。電話アプリの履歴を確認すると画面一面、「喜多見健太郎」の名前で埋まっていた。スクロールしても続いている。どうやら五分も経たないうちにずっとボクにかけ続けていたようだった。
 電話とメッセージが交互にスマホに溢れている。

『出張から戻ったから、会いたい』
『まだ残業中?』
『家に帰りたくない、清瀬に会いたい』
『どうした? 返事してくれよ』
『無視すると、おしおきするから』
『もう、いいよ』

 捨てられる。喜多見さんにボクは見捨てられる。そしたらボクは独りぼっちになってしまう。碧生が隣にいるというのに、ボクは喜多見さんが自分から離れてゆくことが怖くて仕方なかった。

「行かないと……」

 ボクはよろよろとした足取りで玄関へ向かう。

「おい、そんな身体で……。しかも夜中だぞ?」

「だって喜多見さんがボクのこと求めているから……」

 ドアノブに手をかけたときだった。背後から碧生の香りがボクの鼻孔をつく。

「行かせねぇよ。喜多見さんのところには」

 背中が熱い。碧生の体温ってこんなに高いんだ。どうやらボクは彼に後ろから抱き締められているようだった。

「あの人に、清瀬は遊ばれてるだけだぞ? いい加減、気が付けよ」

「ねぇ、碧生。もしいまボクが彼のところに行かなくて捨てられたら、責任取ってくれるの?」

 返事は聞こえないけれど、碧生がボクを抱き締める力が強くなる。

「喜多見さんには渡さない」

「……彼に捨てられたら、ボクは孤独でめちゃくちゃになってしまうかも」

 まだ引っ越しの片づけが半分くらい終わっていないボクの部屋には段ボールが片隅に寄せられている。それでも小さい頃から愛着のあるクマのぬいぐるみだけはベッド脇に置いてある。しっかりとリボンでベットのポールに縛りつけて。どこかにいってしまわないように。ボクがひとりにならないように。

「俺がいるだろ。これからも二人で飲みに行くし。どうして喜多見さんなんだよ──」

 いまボクを抱き締めている碧生の腕はクマのぬいぐるみにくくりつけているリボンと同じだ。このまま解くことは絶対にしないでよ、碧生。

「ボクだけを見てくれる? 碧生は、ボク以外にもたくさんの居場所があるのに?」

 答えはボクの耳に届かない。ボクは彼の自由を奪うくらい独り占めしたいと思ってしまう。きっとキミはボクといたら苦しくて逃げ出してしまうかもしれない。でもボクはこの腕を独り占めできるなら、決してキミの傍を離れないと約束することができるんだ。
 力が弱くなり、するりとボクは彼の腕から身体を抜け出してドアの外へ出る。スマホを片手に喜多見さんの電話へ折り返しをかけると何コールかけても彼は応じなかった。

『いつものホテルにいまから来れる?』

 十分後、彼からメッセージが入る。
 都合のいい浮気相手。そんなことはボクには分かっているけれど、一瞬の快楽と淋しさが埋まるほうがいまはボクにとってはるかに幸せだった。ボクに自由を奪われて、きっと悲しい顔をする碧生を見るくらいなら。
 指定されたホテルの部屋に入ると喜多見さんはバスローブに着替えてベッドに横たわっていた。ボクはこの部屋にすでに誰かがいた気配を感じ取る。きっと喜多見さんはボクみたいな人間を何人か抱えているかもしれない。ボクが呼ばれるのは輪番制なのか気まぐれなのかは分からないけれど。

 ──いったい、ボクは喜多見さんの何番目のセフレなの?

 碧生の緩んだ腕の隙間を思い出すと胸が苦しい。彼の全てを求めてしまえば自分が辛くなるのは目に見えている。

「清瀬、やっと来てくれた。おいで?」

 ベッドの前で立ち尽くしていた俺に気づいた喜多見さんは身体を起こしてボクに手招きをした。彼の胸の中へ身を沈めると気持ちと乖離した性欲にスイッチが入る。

「あれ、お酒飲んでた? 居酒屋の匂いがする」

 喜多見さんはボクの髪の毛の匂いを嗅いでからキスをする。甘い口づけとは程遠い、欲をぶつけるような痛いキス。舌が絡みあうと煙草の味がした。彼が煙草を吸う姿を見たことないけれど、ベッド脇のテーブルにはそれぞれ銘柄の違う煙草の吸殻が並んでいた。

「……煙草、吸うんですね」

「あぁ。会社では吸わないけどな。外ではときどきな」

 違う種類を? たて続けに? そんなことをボクは聞けるはずはない。だって彼にとってのボクはただの部下で、何人かいる不倫相手の一人なんだから。

「なぁ、清瀬。誰と飲みに行ってたんだ?」

 ねぇ、喜多見さん。どうしてボクが聞いて欲しいことをちゃんと尋ねてくれるの? 
 もし、その相手が碧生だって言ったら、どんなことをしてくれるの?

「あ、もしかして碧生くん?」

 喜多見さんの口から碧生の名前が出たとたん、全身に甘く痺れる快感が流れて「んっ……」と喘いでしまう。

「僕が清瀬のこと、こんなに愛してるのに、どうして碧生くんと飲みに行くんだい? 何回も連絡したのに出てくれないし」

 喜多見さんの舌が喉に届きそうなくらい深く弄る。どこに愛があるのか分からないけれど、ボクを強く求めてくれることが心地よくて離れられない。

「……ご、ごめんなさい。き、喜多見さんの連絡、返せなくて」

 彼の舌に気道を塞がれた感覚のまま謝ると彼はボクをベッドへ押し倒して覆いかぶさる。バスローブを脱いだ身体にはいくつか誰かがつけた痕が残されていた。彼に抱かれる人はみな、自分の痕跡をつけないと不安で仕方ないのかもしれない。

「……ちょっと記憶失くすくらい飲んで、碧生に送ってもらったから」

「それで? 碧生くんと二人きりで清瀬の部屋にいたの?」

 喜多見さんはボクの返事なんか待たずに、スラックスと下着を乱暴に剥ぎ取り、まだ準備が出来ていないボクの中へ入ろうと彼自身の先端を押し当てる。

「誰とでも、こういうことしてるんだろ? あの日も碧生と飲みに行けなかったから、泣きながらゲイ専用のマッチングアプリ見てたもんなぁ?」

 床に落ちているスラックスがスマホのバイブレーションで震えている音が微かに聞こえた。碧生からの電話だったらいいのに、と姿が見えないどこかの神様へ祈りを捧げる。

「僕は清瀬のこと、ずっと愛しているよ。もし僕がひとりになったら、清瀬は一緒になってくれる?」

 不確かな甘い糸でボクは彼に縛られる。
 いま、その糸を噛み切って、碧生からの電話に辿り着ければ、その優しい糸でボクを縛ってくれるよね?

 神様、どうか、そうだとボクに告げてください──。

【おわり】

※ここから先は、小説のあとがきなどです!


ここから先は

972字
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