なぜ書くか?

喋って伝える能力が低いというのが一番。。。

喋って伝えられないというのは実は考えが煮詰まっていないということでもある。

ここ数年書き続けているのは考えを煮詰めたいがため。

ということはなんか伝えたいことはある。でも伝える体制が整っていない。”体制”といっても、伝えたい中身がまとまっていないというのが一番。

書いていても、また、まれに最後まで書き上がっても、これまではまだ「準備完了!」という感覚を味わっていない。

ただ書くだけではなくて、最低年2回は人前でも発表しているのだけど、どーもダメだ。

で。まだ書き続けている。

書いていればまとまるという確信はないんだけれど、書かないといつまでたってもまとまらないことは確か。

一言で表すなら何だろう?伝えたいこと。。。

日常会話(ことば)を通したシロート社会学者の育成?

社会の仕組みを学ぶとなると結局教科書読んだり専門的知識を体系的に、、、という風になる。

このどうしようもない体系的知識へのアクセスしにくさをなんとかしたい。

だって私たち一人一人の日々のことだもん。なんでどっかのだれかに「これはサイテー知っとかなきゃダメ」とか言われなきゃなんないのか?

専門知識は無視しなさいというのではない。寧ろ常にそこに準備万端で待っておいて欲しい。でもそこへ向かうのは一人一人の自由。その人がどうしても困ったときに助けてくれるもの。

日々注意を向ける事柄は人それぞれ。同じ人でも状況によって変わる。そういう自然なばらつきを踏まえて、感じ方考え方を操作する方法が説明されるというのは結構意義があるんではないか?と考えている。

だから日常会話。あるいは誰かと話さなくても頭の中で色々考える時に使うことば。その使い方。

時間と空間の説明(再定義)は必須なのかもしれない。。。

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普通空間は無限に広がるとは思われていない。宇宙は拡がり続けていると言われても、一人一人が携えている空間感覚というものは間違いなく制限がある。

対して、時間。これも特に現代人は当然制限を感じている。というか追われている。。。でも、”手触りの無さ”はある。「時間って一体何?」よって制限を感じているとはいっても結構あやふや。だって境界線などで区切られるべきモノがないんだもの。時計とかスケジュール表とか様々道具はあるけれど。。。

実はですね。

私たちは手触り感のある空間だからこそ、一人一人「ある程度制限がかかっていると信じている」からこそ、逆説的に空間というものの制限を緩く解釈してしまいがち。

考えてみればめちゃくちゃ当たり前なんだけど。

今、ここにいるのは私であって、他のナニモノでもない。

つまり、ある時点である空間を占有できるものというのはただ一つ。

「共有」なんて言葉を気軽に使っているけれども、合体でもして一つにならない限り、とある時点のとある空間を二つ以上の異なるものが同時に占めることはできない。

普通、テーブルの上で、リンゴとミカンの場所をそれぞれ入れ換えたって、リンゴはリンゴでミカンはミカンだ。場所がどーとか時間経過がどーとかは全く関係がない。

そう。通常感覚として、私たちは一つ一つのモノ・コトの唯一無二性なんてものには頓着していない。「とある時点にとある場所にあるリンゴは、同じ場所に居続けたとしても、次の瞬間、以前のリンゴとは厳密に言えば違っている」なんてことは考えない。

しかし、これが社会の仕組みの分析となると話が変わってくる。

一人一人がそれぞれの肌感覚も含め、いろんな情報を元に、自らの行動や考え方はたまた感じ方にまで制限をかけ(られ)ているから。

つまり、あらゆるものが厳密に言えば唯一無二であることは無視できない。

何故なら、それを踏まえないと、一体何を踏まえて制限の中身を決めているのか?が曖昧なまま過ごされてしまうから。

当然日常生活の文脈で意味のある厳密さというものがあって、まさか、物理学でいうところの時間・空間の分析まで考える必要は、ほぼない。

ではどの程度のレベルが厳密さを求められるのに妥当なレベルか?

認知科学?脳科学も含む人間の視覚・聴覚などの機能。なわけない。そんなこといちいち意識してないから。日常生活では。

心理学?これは微妙。でも一人一人が占めている唯一無二の空間と時間は無視されてしまいがちなのでダメ。

やっぱりことばなんです。ことばは使う人がいなければ出てこない。心理は特定の誰かが今、ここにいることとは関わりなく分析し続けられる。

何となく伝わりますでしょうか?私の伝えたいこと。

意識していないとはいえ、唯一無二性と空間内の移動や時間の経過に影響をほとんど受けない(ように見える)性質。この微妙な関係こそが私たちを悩ませるものの根源なのです。

リンゴはいつまでもリンゴだ。とある一個のリンゴはいずれ食べられて無くなってしまうか、朽ちて捨て去られてしまうだろう。でもそうなるまではどこにあっても同じリンゴだ。さらに、そいつが無くなったとして、スーパーの果物売り場で見かけたやつも、リンゴはリンゴだ。

「空間内の移動や時間経過にほとんど影響されない性質」というのはそういう感じのもの。

私たちは時々刻々変化し続けているモノ・コトを認識する時、そういった安定的な性質を、どれぐらい安定的か?も含めて判定している。

リンゴの例に戻ると、リンゴと名前が付くたったそれだけのことで、私たちは、”今・ここ”から何億倍いやほぼ無限にといってもいいほど空間と時間を引き延ばすことができているのです。

「空間と時間を引き延ばす」というのは、言い換えるなら、「似ているもの同士なら入れ換えたとしてもほぼ問題なし」とすること。

さあ。ちょっと日常の社会分析に近付いてきました。

いきなり飛ぶようですが、では人間同士ならどう?

「似た者同士なら入れ換え可能」とあっさり納得できるだろうか?

ムリ。

だから様々なパーツに分けて考える。この部分はほぼ恒久的な性質だし、「似たもの同士なら同じもの」と言ってカテゴリー分けしたって問題なかろう。。。

男と女、肌の色、年齢、病名、職業や技能、、、etc.

そう。「同じものとしておいていいか悪いか?」は明確にでなくても常に判定されている。それぐらい微妙で曖昧なもの。

でも、私たちはすっかり慣れ親しんでしまっている。

この慣れ親しんだ感覚を見直すためにも日常使っていることばを見直したい。

何故なら、ことばというものも、数字などのサインも、「時間と空間をほぼ無限に引き延ばす」つまり「似た者同士は同じものとしておいてよい」とすることによって可能になっているのだから。

裏を返せば唯一無二性というのはともかく割愛される方向で全て作用している。これは意識や努力ではどうすることもできない次元のお話。

何ならサイン使わずに生きてみます?テレパシーだってサインなきゃ無理だからねー。

それはさておき。

唯一無二性は割愛される方向だといっても、私たちが時々刻々感じるモノ・コトは全て唯一無二だ。これは厳然たる事実。厳密な空間・時間の考えに基づけば。

唯一無二のものどもを材料に、様々な感覚、そして記号が創造されていく。入れ替え可能性を検証しながら。。。

日常の社会分析を行うにあたって観察すべきことは、「日々の『似たもの同士の入れ替え可能性の検証』の中で、一体一人一人は唯一無二性をどう認識しているのか?」

そしてそれは、「入れ替え可能としておいてよいか悪いか?」、もっと日常の感覚に合わせるなら、シンプルに「いいか悪いか?」の判定の中に表れる。

そうした「いいか悪いか?」の判定とは、一人一人が自らの行動や考え方・感じ方にかけているとある制限から読み取ることが出来る。

とある制限。これを「道徳」と呼ぶ。

整理すると、「道徳」なるものを、「唯一無二性と交換可能性との検証を通して形成される『良い/悪い』の感覚」、と理解する。

唯一無二性に拘らなければならない理由は、現実に、私たち人間がいようがいまいが存在する世界のモノ・コトをより正確に、社会分析で考慮に入れるため。

唯一無二性を完全に無視してしまうと、私たちの社会分析は、架空の無限空間の中で行われてしまう。私たち一人一人はそれぞれ制限のある空間の中で唯一無二の経験を生きているにも関わらず。。。「無限時空引き延ばし」については既に「名前を付けることによる効果」として説明した通り。

無限空間の中での社会分析とは、名前の付いたものの分析。その名前でいいのか?別の場所、別の構成員だと違った名前の方が適当なのではないか?何故なら、これこれの性質は意外に変化しやすくて、それそれの性質の方がより安定的だから、、、みたいな感じ。絶えず新たな証拠を挙げては見直しが行われ続ける。必要な作業ではあるけれど、残念ながら名前の名前による定義・再定義というのは永遠に続けられる。で。肝心の名前たちを供給してくれているものとは???そう。人々がその生身の体で感じ取る唯一無二の経験の塊たち。

お堅い言い方になってしまったけど、名前の名前による定義・再定義って、日常会話では、言葉の正確な理解であるとか、その根拠(エヴィデンス)の有無や信用性であるとか、まあざくっと言ってしまえば本当かウソかの論争。

何故とある事柄の理解の正確性とか、本当かウソかに拘るのか?というと、ことばというものは現実世界を正確に描写するものだ、描写すべきものだ、と思い込んでいるから。

特に日常生活のマネジメントに必要な社会の仕組みあれこれの分析においては、この前提は不要。というか害悪にしかならないので捨ててください。

ことばに触れ、探るべきは、日常の社会分析においては、ことばの出どころであるところの誰かが、一体どのような制限をかけ(られ)たから、そのようなことばがでてきたのか?ということ。

それ以外には何もありません。

探る上で知りたいなーと思ったことは調べればいいこと。辞書やら百科事典(ウィキ含む)やら関連書籍などを当たって。

ということは、ことばで描写されたことを正確に理解しようとすることは”必要に応じて”やる、ということ。

何に”必要”なのか?は、繰り返しますが、話し手や書き手によってどのような制限がかけられたからそのことばが出てきたのか?を探るため。


対象とすべきは、日常生活で触れることば全てなんだけれども、「なんでも」って言ってしまうと、なんせあまり馴染みのない方法のこと。具体的イメージが湧きにくくなることでしょう。

そこで私が現在注目しているのが、金目(かねめ)の話。

一体全体金目の話がどういう風に、ことばにかかってくる様々な制限と関わっているのだろう?ということ。

つまり、収入がどれぐらいあるか?どれぐらい日々の生活に必要か?などはざくっとでも見積もる。そしてその見積もりの結果、余裕がある場合と、全然足りないのとでは、出てくることばも違ってくるだろうと。

でも、あくまでもざくっとだから。。。

必ずしもファイナンシャルアドバイザーに聞いて計算してもらったり、正確で信用性の高い計算方法で見積もったりしているわけではない。

いろんな方法があると思うんだけれども、具体的な計算方法には踏み込まず、ただ、ことばから、金目の余裕または厳しさ=金目の事情が及ぼす制限を読む。

”読む”という以上、形はストーリー的なものになる。数式や数学的モデルというよりも。

より具体的には、何をもって安心感であるとか不安感・危機感としているのか?計算が唯一無二の方法でない以上、数量的なものだけが根拠とはならないはず。数量が主たる根拠である場合でも、とある意味のある説明(ストーリー)に落とし込めるはず。

おカネというものは大体みんなが使っているし、現に生きているということは、借りて工面したりしている場合も含め、いくばくかの手持ちがあって、日々多少なりとも消費などに使われているということだろう。

私のまだごく粗い推定でしかないのだけれど、厳密な数字として金目に余裕がどれぐらいあるのか?は勿論分かりようがないけれど、人々が、いわゆる一般大衆に十分理解されるような正しさの主張をしている場合、あまり余裕はない。

その余裕のなさも、正しさの根拠が、エヴィデンスだの合理性だの科学的手法に基づいた検証だのいわゆる客観的指標だったりする場合はまだまだ結構余裕あり。【←交換可能なものが沢山。】

政治的・倫理的なものが根拠だと、これも専門的知識(政治経済論、公共選択論、政治学など)への依存度が高いとまだ比較的いける。あやふやだと結構やばくなってきている。【←交換可能なものが限定されてくる。】

そして、もろ道徳的な主張(例:公正平等な社会を求む!事実は全て開示すべき!友愛こそ社会安定の要!とか)だとかなりヤバい。【←交換可能な手持ちが極端に少ない。】

という感じ。

ヤバさの指標は、交換不可能/可能性。つまり、一番ヤバい道徳的な主張だと、主張していることを誰かが聞いてくれて、理解してくれる(一応交換可能)だけではほとんど状況は変わらない。誰か?というのもしかるべきポジションにいて、現実に金回りをよくしてくれる、とか具体的な施策を講じられる人でないと事情は変わらない。ところが、そうした「アクションをとってくれるといいなー」という理想の誰かというのは、往々にして、道徳的主張自体には目を向けない。あくまでも具体的な事実・証拠・論拠などなどを見て、なければ却下。何かあったとしてもアクションを取るかどうかは分からない(かなり確率は低い)。つまり道徳的主張というのは社会関係の変化に必要なコミュニケーションを呼び起こしにくい、という意味で交換可能性が低い。(お互い感情的になると社会関係の崩壊につながる恐れも。。。)

しかし、困窮度は高いはずなのだから、何らかの対策を講じるなら、この道徳的主張に専ら偏ってしまう層を最優先に考えるべき。

対策も大きく分けて、困窮している人々に直接行うものと、彼らの主張に沿って理想上の対話者といえる者に行動を促す方法、そして両者を仲介する感じの3通りが考えられる。

いや。実際は3番目だな。。。

3番目の繋ぐ立場からすると、短期、中長期で焦点をそれぞれ絞った方がいいだろう。

困窮度の高い人々への直接支援は長期。心のケアというか、現状分析の仕方から、それに基づいたコミュニケーションのやり方などなど、現実の金目の事情が改善されるならば、じっくり取り組んでいける感じ。

では理想の対話者の特定と、その人々へのアプローチはどうすればいいか?

手っ取り早いのはドカンとみんなにおカネを回してくれるよう仕向けること(ベーシックインカム)なんだけど、これはかなり難しい。相当綿密な事前構想そしてラフではあっても実施計画がなければ、具体的な行動にはつながらないだろう。

現実的な方法。それを進めるためにも、私の主唱することばの読み方(話し手・書き手がかけ(られ)る制限を読む方法)を普及させる。

理屈はこうだ。

(1)ベーシックインカムが実施されないなら、結局誰かがより余裕のない層へ金が回るようにしてくれなければ何も変わらない(どころかどんどん困窮度は高まり続ける)けど、それって誰??ってのは厳密に定義することは難しい。

(2)であるならば、全ての人間が、一体何に不安感を持っているのか?それを金目の話と関連させた上で理解を深めることが先決ではないか?何故なら、そうすることで、余裕の有る無しをより厳密に理解することができるから。

(3)こうして得られるより正確な事実確認(金目の余裕度/困窮度に関する)は、人々の社会格差に関する肌感覚を変えるのではないか?余裕ないないと思っていた層が、いや、実はそうでもない、と認識を改めて、弱者救済に動き始める、、、とか。。。

(4)これはあくまでも希望的観測でしかないけれども、一人一人が「いかに金目の余裕って生活だけじゃなくて心の安定にも重要か?」についての理解を共有することができれば、より大きな意思決定に繋がりやすいのではないか?

(5)ベーシックインカムという大掛かりな制度の設計・実施計画は、それこそ大掛かりになる。でも、現時点では原則「性悪説」の方に偏っていることに伴う”大変さ”が少なからずあるだろう。つまり、実はそれほど性悪ととらえる必要はない、ということが分かったりするだけで、現在想像されているような”大変さ”はかなり軽減されるのではないか?上記(2)~(4)の過程は、単に人々の安心感/不安感マネジメントの変更にとどまらず、政策決定者への正確な情報提供という意味もある。

(6)つまり、ことばから、その発信者が自ら判断して設けているであろう制限を読む、ということは、性善説とまではいかずとも、信頼できる部分は信頼してみる(賭ける)という要素を、まずは人々の日々のマネジメントにおける考え方に、そしてできれば社会政策にまで取り込むことができないか?という願いが込められている。

ということは、私が伝えたいこととは、「ことばからそれを発する者がかけ(られ)ている制限を読むこととは、『人間ってこうなんじゃないの?』という理解をより厳密に正確なものとする」、ということ?

何らかの事情により、不安を大きく見積もってしまうなんてことは日常茶飯事だろう。ただ、それを”認知能力不全”なんて言って済ませていては、人間の真の実力を知ったことにはならないのではないか?

何故そういう認知能力不全みたいなことがほぼ普遍的なパターンとして現れるのか?

唯一無二性と交換可能性に関わる曖昧さをどうしても取り扱わざるを得ないからなのでは?

そういうもうどうしようもない葛藤を誰もが抱えながら生きている。現代であれば、おカネのみならず、いろんなモノや無形の資源(技能、知識、情報)がどうしても足りなくて四苦八苦しているのに、「うだうだ言ってるだけやったら何も変わらんで」みたいなプレッシャーも受けつつ。勿論、できることならなんとか工夫して絞り出した方がいい。でも、人間関係の構築一つとったって、仲間ゼロみたいな状況って、個人個人の真面目さであるとか誠実さだけじゃどうにもならん場合だってある。経験的にだか、理想的にだか知らないけれど、「真面目で誠実なら孤立無援で野たれ死ぬなんてことないでしょ?」って考える人多いと思うけど、たとえその法則が正しかったとしても、「ああ。お前は真面目でも誠実でもないし、死んでもしゃーない。」なんて言って平気な人が大多数を占める世の中って、すごく違和感を感じる。「まあ各自ご勝手に」なんてすっきり解決しちゃったようなこと言う人もいるけど、できるもんだけで固められた社会って、平穏無事であり続けられるのかな?現実的に。人が人を仕訳けるような方法だけでは、あんまりチャレンジングでもないように思えるし、「仕訳けて解決すればいいんじゃん。カンタンカンタン。」とか言って、もちっと助けられそうな者が、哀れ、強い者の匙加減一つで殺されちゃうなんてことがきっとどこかで続けられることだろう。

何もかも全部を面倒見ろとは言わない。でも面倒見れなかったくせに威張るのは私は許せない。

人生なんて絶対”勝ち負け”なんかじゃない。

誰だってよく生きられるならそうしたい。それなのに生き残れそうな人の方が「ええもん」気取りで、辛酸舐めまくりの方がさらに「おまえらが悪い」なんて言われなきゃなんないなんて酷(こく)過ぎる。

生き残れそうなんだからちょっとぐらい偉ぶるのを控えたっていいじゃないか。「本当は助けられたかもしれないのにできなかった」って死んじゃった人たちに心寄せたっていいじゃないか。

腐れ切った醜い奴らだって人間だよ。

生かしといてもアブなそーなだけだからって隔離したり、撃ち殺しちゃダメだよ。賢い人は大概上手に退避・回避するけど、そういう時は「できることなら何とかしたいけど今は力不足です」って悔しがったり、尻尾巻いて逃げることを恥ずかしいと思ったっていいんじゃないか?結局余裕で生きてはいられるんだからさ。

(ここまではやさしー常識現代人向け)↑

(こっからはめっちゃ真面目に生きるってことを突き詰めたい人向け)↓

「どんな人生だって意味がある」ってぐらい意味のある人生なんてどこにもないんだ。

「殺しちゃだめ」ってのはね、絶対お前らは殺す、現に殺しているっていう戒告。だから一人や二人新たに殺したところで/殺さなかったところでいい悪いにはなんの影響もない。「それであんたはどうする(生きる)ね?大差ないんだったらってことでやんなくていいもんまで殺し続けますか?余分なのぐらいはやっちまわないように気を付けてみますか??」って問い掛け。答えは一人一人勝手に決めりゃーいい。ただそれだけのこと。

誰しも望んで生まれてきたわけでもなし。どう生きるか?

それぐらいは決めさせてやんよ。

我々人間は無力であるってこと。かなり安く見積もっちゃってやしませんか?現代人諸君。

真面目?誠実??謙虚???

お願いだからこれ以上神様笑わせないようにしようねー。笑わせ合うならやっぱ人間同士でしょ?(神様って、多分笑ったらめっちゃ恐ろしいと思うよ。。。)

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