ソーシャル・エンジニアリング

交換可能性の高いモノは貯め込まれやすい。生きていくために必要性が高いから。

しかし、人間の認識というのはそれほど信頼性が高いものではなく、交換可能性への期待というのも必ずしも正確に実現性を予測できているわけでもないし、何のためにそもそも交換可能性の高いモノを追い求め、そして、貯め込んでおこうとするのかさえすっかり忘れてしまう。

交換可能性が高いモノを求め、貯め込もうとするのは、そうすることにより、より安定的な未来が期待されるから。

安定的な未来が期待されるということは、当然物的資源の確保が、量的に(あとできれば質的にも)十分で、持続的でもあるということが期待されているということ。

しかし、日常生活を送る中で、物的資源を確保するため、各人が直接的手段のみに訴えれば、有限な物資の取り合いになることは自明。また、与えられた環境により、物資の分布にはバラツキがあるけれども、手近に必要な物資がない場合でも、手をこまねいて自滅を待つようなことはしない。つまり、あるところへいって奪い取る、交渉して何らかの分け前を獲得する、なども含め、利用可能な資源が他にないか?を探る。物資の過不足は、その時、その場に居合わせた人々の感覚にもかなり大きく影響を受けるため、計算上足りているとしても、さらに利用可能な資源を探る。したがって、現に存在する有限物資を食いつぶす、或は、それを巡って奪い合う、のみではない、ということ。

現存する物資のほかに、さらに別の可能性を探るにあたって、人々が通常とる行動は情報交換、或は、ネットワーク作り。現に存在する物資に限っても、それがいつ、どこに、どれぐらいあるのか?万人が等しく知っているわけではない。ましてや、まだ知られていない物質なんて考慮に入れた日には、何気ない情報のやり取りの中で、偶然誰かがひらめく、なんてこともあり得るだろう。つまり、現物獲得のための直接行動をとるよりも、準備に膨大な時間が費やされているといえる。

この準備がコミュニティやさらに緩やかで大規模な繋がりとなって現れる。社会といわれるもの。

さらに考慮に入れなければならないのが、あそび

準備とはいっても、万人が24時間体制で、生きていくために必要なエネルギーのことばかり考えている、と考えるのは非現実的。そもそも何がどこにどれぐらいあるのか?が不確かだから情報を集めようとする。この情報収集のためには、接する人々の間で一定の信頼関係が築かれる必要がある。「一定の」というのは、各人が自分以外の者(たまにモノ)からもたらされる各種情報を信じるかどうか?少なくとも情報を情報として理解できる必要がある。

信頼関係というのも、したがって、確固たる礎のようなものがあれば理想だけれど、実践の場面では、各人がかなり細かく「信用していいかどうか?」について検討していて、その結果たまたまではあっても、複数人の間で「お互いのもたらす情報を信じてみよう」と決めるから、合意のようなものが形成される。当然各自のもつ情報は様々であるから、関係は均等平等ではなく、それぞれの強み弱みが作用するような動的で非平衡な関係の下、交渉が進む。

動的で非平衡ということは、いつ、どこで、どのようなときに交渉が発生して合意が形成されるのかはわからない。勿論より安定的な交渉の場を求める者も多数現れる(マーケットの形成)けれど、それよりもはるかに多くの人が従事するのは、とりあえずの安全確保。生存に必要なエネルギーを確保するための物資調達につながるかどうか?は、安全確保の結果ついてくる感じ。つまり、食っていかなければならないのは重々承知しているけれども、常に食べ物を確保するために必要な直接行動をとっているわけでもない、ということ。

より安全確保について詳しく見てみると、何をやっているか?といえば、とりあえず群れる。それがない場合は似た者集団を形成するなり、既存集団にジョインしたりする。

人間の場合、現代では核家族があるけれども、それがなくとも周りにはたいがい人間はいるので、それを頼りに自己イメージを形成していく。その形成過程で、ほとんど意識しなくとも、常時接する人々に似てくる。

これは、見た目もあるけれども、それよりも内面的経験が似通ってくる方が大きい。それは人間のとるコミュニケーションがかなり複雑なサイン(言葉)を媒介として行われるから。

単純にとある形質をもつ人々を繰り返し見続けるだけでもなんとなく似てくるということもあるけれど、言葉があると、見た目よりも、動き方であるとか、そのワケ、目的なども分かってくるので、各人が内心で「似てる/違う」を判定して、そう感じるようになる。つまり、極端な場合、見た目は全く似てないけれども、お互い似た者同士と信じているということも普通に起こる。

こうして、似た者の存在を認識しておけるだけでも、安心感は格段に向上する。いつでも助けてくれる、なんてことはなくても、とりあえず世の中がどうなっているのか探りを入れたいときに、貴重な情報源となる。貴重な情報源とはいっても、そもそもつながりをキープしておくことが重要なのだから、なにも物質的な情報のみをやり取りするわけでもなく、挨拶もシンプルかつ重要な手段だろうし、たわいない雑談や冗談でもって楽しい時間を過ごしたりもする。

一旦まとめてみると、人間は生命維持に必要なエネルギーをより確実に継続的に確保できそうな状況を作り出すために、一見本来の目的(生命維持に必要なエネルギー獲得)からするとムダとか無関係と思われるような行動をとりながら、他者とのつながりを確立し維持する。

それでも本来の目的は生命維持に必要なエネルギーの確保なのだから、それ自体をより多く集めたい。で。より多く集めようとするなら、すぐに気付くのが有限性。有限であるなら節約するか?チャレンジングではあるけれども創り出す。

実際様々な技術を駆使して人間は本当に多様な物を作る。しかし、より厳密に見ていけば、エネルギーは創り出していない。人間が、生命維持のために摂取可能な形にエネルギーを変換しているだけだ。さらに厳密性を高めれば、人間が摂取可能な形への変換も、ほとんど他の生命体に依存している。間違っても、人間が石油飲んで生きていけるようになんてできていないし、百歩譲って直接人体に取り入れ可能な化学物質を作り出せるようにはなっているけれども、そうした物質を取り入れるだけでも生きていければ構わない、と考える人はごく少数だろう。気持ち悪い、やっぱり食べるのを楽しみたいっていう感覚的な懸念やこだわりもあるし、健康面にどのような影響がもたらされるのかもわからない。

要するに、人間の知恵がどれ程発達したように見えても、技術でできることは、エネルギーを人間が摂取可能な形に変換する、ということ。言い換えるならば、いかなる技術も、エネルギーが人間にとって摂取可能な形に変換されることにつながらないないなら、価値がない、ということ。

現代に観察される危機的な錯覚は、「おカネの価値に換算される技術や知識が価値あるもの」と思い込まれていること。

では、科学技術以外の知識に価値はないのか?と拙速に問いたくなる人も少なくないかもしれない。散々長々と情報交換のためのつながり作りについて述べ、「あそび」にまで言及した通りで、現実に人間が摂取可能なようにエネルギーを変換するための技術が可能となって実現化されるためにも、人と人とのつながりがまず確保されている必要がある。どのような人の間のどのようなネットワークか?に関わらず、情報が流れ、現実が一体どうなっているのか?がより正確に探索できるような状態が確保されていなければ、そもそも技術開発そして実現化が滞ってしまう。何故なら、科学技術の開発自体もエネルギーの制約は受けるし、その実現化となるとさらに制約が厳しくなる。つまり、現在既に観察され始めている通り、投融資計算上十分な回収率が見込まれるような技術開発が次々と実施されていく一方で、エネルギー制約を解決はできなくとも緩和する方向で機能していないため、現実の経済活動が停滞したまま、という現象が起きてしまう。

まず目指されるべきは、いかに摂取可能なエネルギーをエネルギー制約の観点から効率的に作り出せるか?そしてこれまたエネルギー制約の観点から効率的に分配するシステムを作り出せるか?

おカネ計算上の効率性ではなく、現実にどこにどれぐらい摂取可能なエネルギーが不足しているのか?を把握するためには、人々の安全確保のプロセスまで考慮に入れた、需要を把握する必要がある。この需要というのは、様々な価値観を持って、異なる環境で暮らす、人々の異なる期待感に影響されるため、非常に動的であり、また、一見とある集団内において合意に基づいた生産分配が行われているような場合でも、様々な物的及び非物質的な資源の交換が行われておれば、それは集団内部に、洗練度の差こそあれ、システマチックな階層化が存在し、下層の者たちのニーズであるとか期待感は集団のそれに書き換えられており、当該集団内部に限ったとしても、エネルギー制約上効率的な資源分配が実現されているとは限らない。

次のノートでは、エネルギー制約の観点から効率的な資源分配とはどのように実現していけるか?その方策として、いかに個々人の事実認識が重要になってくるか?また、比類ない交換可能性向上メディアであり、情報媒体でもあるおカネに期待される役割についても詳説していきたい。

キーワードは動的非平衡な交換で形成される信頼関係と個々人の常時変遷する期待感(物的資源探索・確保及びその土台となるべき他者とのつながり確保に不可欠な相互理解(意味の交換)可能性への期待)、そしてギャンブル

楽して生きたいところだけれど、それはそれぞれが個人単位で追求している限り不可能で、自他の曖昧な境界線と向き合うぐらいの苦労は覚悟しなければ、延々と後世に問題を先送りするばかり。一人だけ、身内だけで生き抜けようなんて稚拙で醜悪な気持ちは、がっつり向き合った上で、極力示さないように努めることです。「そんな醜くない」って言い張ったり、無視しちゃっていてはいつまでたっても抑制なんてできない。基本です。


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Hakushi Hamaoka

モノになるならつなぐもの

いかに瑕疵なく分けることができるかを競い続ける私たちの行く末はモノ。でも、今現に生まれ生きている若い命を見て「あなたたちも所詮モノよ」なんて言う気は起こらない。勝てないと分かっていても無抵抗ではいられない。生きるということはつないでいくことだから。 適宜更新の目次➡htt...
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