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「伝えるための技法」メモ

何でも全部自分自身に関連付けさせちゃえるような書き方とは???

社会問題、科学技術、アートなどなど、どんなに縁遠い問題でも、読む人に、その人自身との関連性を想像させることができるような。

「これらは全部私たち一人一人の内に宿っているものなんだよ」と伝えるにはどうすればいいか?

『Japan: A Re-interpretation』を読みながら、アートってなんだか人間の本源的な活動のような前提があるように感じられるのだけれど、それって案外ノスタルジックなんじゃないか???

人間というものの本源って何なんだ???

それがわかりゃー今のような状態ではないはず。

「人間の本源なんてない」と前提すること。

本源は一人一人が、各自の意志ではコントロール不能なとある制限は勿論受けつつ、つまり、ある一定方向のクセを持ちつつ動くことによって現れる軌跡でしかないはず。

大切なのは、何をそういったコントロール不能な制限と見るか?

案外簡単に、自然であるとか、運命であるとか、単にとある現象に名前を付けて、それをあたかも「生来のクセ、習性」のように扱って、制限と見ているのではないか??

名前の付いたもので、広く「抗し難い習性」のように信じられているものを、批評的に分解し、喝破していくことはできる。そういう手法は既に(そんなに人気はあるとは思えないけども)広く採用されている(科学的手法も実は同根)。

ただ、この手法自体が目的化してしまうと、そもそも何で分解したりする必要があったんだっけ?というのが忘れられがち。

「目的化させない手法」なんて可能なんだろうか?

言葉を使う以上、言葉への帰責性は避けられない。

言葉を使いつつ、人間は言葉に何事かの責任を転嫁している。

許容されるのは、日々感じる不安や疑問への対処策として。

他者との交換可能性(自分はこの人の仲間か?理解を共有することはできるか?など)を探ることができるだけでも、不安の削減には役立つ。

危険シグナルは、お互いの仮定や期待が正しいか?どうか?のチェックに入った時。モノゴトについてではなく、言葉(概念)の定義、或は、提示の仕方について話し始めた時?

交換可能性を探る以上チェックは避けられない。では、大事なのはチェックの方法???

「分からない」と伝える時、それは何がどう分からないのか?

使用される語彙や文法などの語法が適切でないと、「分かりにくく」はなる。けれども、知らない単語とか、語法の誤りによって、何が分かりにくくなるのだろう?

話者の真意

真意って何?

これは、ケース・バイ・ケースで見ていくしかないのでは?

ただ、基本的な態度として、「何か伝えたいことがあるんやろうなあ」(What's wrong?)と前提することは可能で、かつ、大切になる。

当然、常に肯定的なものではなくて、はなっから「だまくらかしちゃろう」というような真意だってある。

でも、それを読み取れるかどうか?は受け手側の責任でもある。

Everything should be attributed to yourself. However, attributing everything to yourself is just something like a religious creed, which is completely empty. You need to fill in the blank with your deeds.

他人の真意を読むためには自分の真意の捉え方(結構ゆらゆら動くはずなので)が上手になる必要があるはず。

でも。。。

読む人がそれを読むだけで、自らの(そして他者の)真意を捉えるのが上手になるような技法ってどんなもの???

”不均衡”かなー?不均衡から出発して、均衡への願いを経て、、、やっぱり不均衡で終わる(からやっぱ私が頑張んなきゃ♪)みたいな。。。(わかりにくいな。。。)


[Weak analysis]

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