血沸き肉躍る

齢を重ねるにつれ血沸き肉躍ることも少なくはなる。

どちらかというと沸き躍るタイプと自認している私とて、幼い頃のようには沸きもしないし踊らないと感じる。

これが老いるということなのか。

とはいえ老いとて悪いことばかりではない。

3人に2人が高齢者になろうというスーパー高齢化社会。

そいつらみんながみんなに沸き躍られたんじゃあ暑苦しくてたまらんじゃろう若者も。

モデスティの美徳ってもんもあるし。

沸き躍っておったとて、そりゃ内に秘めといた方がいい場合もあろうし、そいつが年の功だとも言えよう。

ただ老いさらばえるのではなくて、変わらぬ熱いものを持ち続けられるのならその方がいい。

しかし現代の様子を見ていると、ジジババではなくて、沸き躍りまくっているはずの子どもたちにサイレンサーをかけようかけようというような圧力めいたものを感じる。

圧力めいたものなので、誰かが意図して何かを仕掛けているというわけではなさそう。

そいつがタチが悪いともいえるのだが。

多分意図していることは子どもたちのためになること。

本来子どもたちの血は沸き躍っているわけだから、もしも大人たちが子どもたちのためにと様々なものを差し出せば、どんなものであっても飛びつき喰いつくはず。

けれどもそれがちょっと多様過ぎるという場合、何が起こるだろうか???

忘れちゃならんのは、なんぼ大人たちが与える施策などなどが随分と多様であるとしても、子どもら一人一人の多様性はカバー仕切れんということ。

算数できなきゃ社会ができればいい。勉強がだめでもスポーツや音楽、絵や彫刻が優れているかもしれない。伝統的な学校での教科以外にだって社会に出て役に立つ才能ってあるかもしれない。そうやってどんどんどんどんと子どもたちを自由にのびのびと生きさせてあげようあげようとしてはいるのかもしれない。

でもね。

そういうものを5万も100万もアイテム取り揃えてあげたところで、、、、。

全部何やったってうまいやつにゃあ敵わないって子もたくさんたくさんいて、それはゼロにならないどころか相当数存在し続ける。

残酷な現実ってやつ。

国語算数理科社会も完璧でスポーツ万能で音楽も芸術もできる人間だっておるからな。。。

ましてや子どものうちはどんだけ習い事させたりいろんなコミュニティに参加させたりしたところで、それ以外のもっと広い世界がどうなっているか?なんてことまでは中々把握できるもんじゃない。

つまり、そこでダメだったとしても、別の世界には少しはできることがあるかもしれないし、ダメダメ思ってたら実は自分が巻き込まれていた集まりが相当レベルが高くて、外に出てみたら案外イケてた、なんてことも十分起こり得るのだけれど、子どもにとってみれば日々過ごすコミュニティの濃度ってのは濃くて、そこがどうも住みにくいなら、それはかなりなインパクトを及ぼしてしまうということ。

逃げ場がないくらい濃い時間ならなるべく無難に行きたいわな。

無難にってのもね。読んで字の如くでただ身の安全だけ図れればOKって言い切れるなら話はカンタンなのだけど。「(自分は)死にさえしなきゃいい」なんて思えないよね、、、子どもでなくても。。。(「(他人は)死にさえしなきゃいい」の方がヤバイんだけど。。。)

何が見落とされているのか?というと、どんなに多様に才能開発プログラムのヴァラエティが増えても、結局のところ「できる=善」ぐらいの勢いでできるようになることが目指されているということ。

これ結構キツクない??大人でも。

できるとかできないとかしばしほったらかして楽しませろよって気分になったことない???

それはさておき、できるのが上なら、ランク付けは始まるよね。位置確認ぐらいのもんでランク付けは言い過ぎかな?上中下、、、中の上、中の下、、、とか。

少し前ぐらいならその位置関係で序列が決まって~とかで済んでたのかもしれないけれど、今はちょっと違った感じがする。

そんなん意味ねーから上目指すとかアホ。

ちょっとでもランク上位におった方が安全やからできるように頑張る、なんてのはごくごく少数な感じ。

一番楽なのはランクみたいなもん自体を否定することよね。

まあこれが流行っているのは子どもの世界に限った話ではないんだけれど。。。

でもってそのてのやり方だって別に悪いことばっかでもない。

乱暴に丸めれば、何事も匙加減。

ということで他者との相対的な比較なんてものに拘らず、一歩一歩自らの歩みを進める作戦にも弊害がないわけではない。

みんながみんなそんなしっかりしてれば苦労はしない。

しかも子どものうちから。。。なんてゼッタイムリ。ごくごくわずかな例外を除けば。

ランクみたいなもんに拘る必要はないけれど、やっぱできるようになってやる!みたいなガッツね。そういうもんを刺激はしたげないかん。

それで何やったってできるようにならないとしても嘆くことはないのよ。

「できるようになること」ではなくて「できるようになりたいと思ってチャレンジしてみるという経験」が大事なの。

そうしてみてランクみたいなもん否定したところでうまい下手、出来不出来ってあるよなぁと思い知らされることも大事。

あと、学校みたいな環境で、すごい身近におる同級生とかなんかと競ってみる(競わされる)という経験もバカにできない。

自他の能力の違いだけではなくて、努力の仕方の違いにも気付くことができるから。

努力の仕方というかね。まあ誰もが(特に出来る方の人たちでも)ある程度努力はしとるもんなんや、という気付きを得ることが何をおいても望まれる。

既に言った通りで上下は現れてしまうものなのよね。それ眺めて一喜一憂しててもしゃーないでしょ。

才能も違えば努力の仕方をはじめとする通って行く道筋も違う。

ならできるようにやればいいんだし、いちいちできることを威張ったり、自分だけがさも特別に努力しているんだなんて根拠レスなことに価値を置く必要もない。

齢を重ねるにつれ血沸き肉躍ると感じられることは少なくなってくるのだろうけれど、内に秘めたる熱いものというのは、そういう経緯を経てずっとたぎり続けるんじゃないだろうか。

そういう熱い気持ちがあれば、今の子どもたちが苛まれているように見える戸惑いのようなものも、少しずつ取り払って、血沸き肉躍るような経験を増やしてあげられるんじゃないだろうか?


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