割と複雑な問題

何にサブミットすべき或はしたいと思うか?をめぐる軋轢

「戦乱を終わらせることはできない」と前提しているかのように見える世界

明らかに大きな格差がある

なら恵まれている方が世の中良しなにとりなしてくれるだろうと仮想してしまうことは避けられまい。

現実はそのような区切りははっきりとしていなくて、例えばアメリカのようにでっかい国だって世の中のすべてを図ったかのようにマネージはできなくて、そうした不徹底さは社会に遍く存在する。

つまり、たまに、「おっ?こんな弱そうな人々にもこんなでっかいことができるんや!!」ってことにも遭遇する。

すると、素直に納得する人もいるだろうけれど、「何か裏があるんじゃ?」って疑う人だっている。

「複雑」とタイトルでいったけれど、多分万人に共通する素朴な感覚。

明らかすぎるのは個人にできることには限界がある、ということ。

このごくごく素朴な「限界の認識」なんだけど、既にそこには「何か誰かにすがらざるを得ない」というこれまた素朴かつ曖昧な感覚が同居している。

ようするに、誰しもが自由意志であるとか努力であるとかあらかじめ決まった通りではない行き方を探るし、それと同時に、「さすがにこれ以上は無理」っていう限界を踏まえる、というか、努力できる範囲を区切る。で。その「区切る」っていうのは、潔く、「参りました」って言うんじゃなくて、「頑張っているけれど、○○○○が解決できないのは、私の努力云々ではなくて、何か誰かのせいです」と言う。

これは理屈からして避けられないこと。

何故なら、完全に自分は無力で、運命とかで決められたことに対して何もできません、とは言えないから。

完全に諦めてしまうということは、いくら「本気でそう信じてます!」と主張してもウソになる。

私たちが生きているということは、もうその時点で、どんな考え方をするか?などなどに関係なく、自然の摂理に反してしまっている。違う行き方があるように思えてしまうから。

そういうもうどうしようもない性癖を踏まえるなら、今のように、「何が事実か?虚偽か?」を、行動であるとか、言動であるとか、その他表現に「証明させよう」とするのは、自殺行為である。

何故なら、お互いに「事実であること、虚偽でないこと」だけを表に出させようとする、というのは、ただ表現の自由さを奪うばかりで、さらに、このルールに反するものは、真面目に取り合う必要はない、という前提を皆に植え付けてしまうから。

内心の信条として「噓をつかない」というのはキープされるべき。

でも、皆が一様に、誰もが過たず事実/虚偽を判別できるように、表現できるか?というと間違いなくバラツキは出る。さらに、「誰もが事実/虚偽を過たず判別できるようなルール」も永遠不変でないばかりか、ルールにお墨付きを与えることができる人とそうでない人との間には非常に大きな格差がある。

今現在インターネットの普及で様々な表現が本当に多様な人々によってなされていることが、事実として確認されている。ただ、多様とはいっても、表現のバックグラウンドにある考え方であるとか、それをどう読むか?の作法は、相変わらず力を持つ者たちが支配している。厄介なのは、「支配の範囲が何となく広がりそうなので頑張っちゃう人々」が、そうとは思っていないこと、そして、頑張る方向が既存のパワーストラクチャー(権力構造)の維持強化を志向していること。

簡単に言ってしまえば「数の勝負」。

特に知能の優れている方の人々は、真逆の自己イメージで動いているのが危険。

既存の権力構造を引っくり返すためにやっていると思っている。数の勝負にしか持ち込めていないのに。。。

益々大事になってくると私が考えているのは、脅しに耐える力。

数の論理は恐ろしい。

ユニークなものがいいって言ったって、そういってくれる人が一定数以上必要だ。

個人にできることは限られているので仲間を募る。

でも、仲間なんて言ったってそれも所詮は数を示すためでは数の論理に負けている。

参加せずに気持ちだけ連帯している。そんな感覚こそが一番効率的で効果的なんだけど、今のところいい方法があるとは思われていない。

「猜疑心に打ち勝つ方法」ともいえるかもしれない。

世の中のあれこれ。これほど情報過多の世の中だと疑い出せばきりがない。

もしも何者かに利用されているだけなのだとしても、ホワイトヘルメッツに文句を言ったって仕方がない。

そんな簡単なことすら解らずに今日も情報が垂れ流され続けている。

「ジャーナリスト」などのすでにお墨付きを与えられるほどの力を持った肩書が、こうした事態に対して一体何ができるのか?

究極的には、発言する者、発言しなくたってとある情報を理解したり、それをもとに考えたりできる人々は、「ジャーナリスト」だと言っておかしくはないだろう。

いつまでも「だから君たちはダメだ」と言い続けていても、事態は何も好転はしまい。

既に名を成した人々が、数の論理に頼っていては事態は何も変わらない。

知識人はそこのところをもっと厳しく見るべきだ。

自分たちは「知識の量」に依存していないといえるのか?

正確な情報を発信することだけが至上命題たり得るのか?

時代は変わった。

雑多な情報は「精査」されるべきものか?私はちょっと違うと考えている。

一体誰がどのような仕組みで「これは精査すべき情報です」ということを決めているのか?

情報の根源たる多様な人々は、「精査されるべき情報を決めるフォーミュラ」なんて構わず発信するもので、それはほぼコントロール不能だ。

他方、「フォーミュラに構わず」といったって、何がアテンションを引けるか?ぐらいの嗅覚は利くし、そもそも使用可能な語彙だって、より権威のあるグループのそれに従おうともする。

一体なぜ表現行為に打って出るのか?

それは正義感あり、他者との連帯を求める心あり、様々なれど、結局言葉を使ったり、とあるルールに従おうとしている以上、何か交換可能となるものを提示して、交換可能性を探っているのだ。

こうした行動や言葉の表面には現れない複雑なプロセスを、いちいちみていかなければ、例えば「理想的なジャーナリズムのルールに沿った情報発信の作法」だって広めることは難しいだろう。

そうした知識は原則皆のもので、一部の(とっても努力した)人々の専有物ではないのだ。

一人一人、固有の時間と空間を生きていること、そして、それにもかかわらず、私たちは他者との共有空間をイメージしてしまうこと。

これらのことをもっとシリアスに受け止めなければならない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?