ちょっとちがう

甘え

「自分にできない事」と「自分にできる事」ってそんなにはっきりとは分からない。少なくともいろんなことを頼み頼まれする日常で、いちいち判定なんてしていない。同じ事を同じ人に頼まれても、すんなり聞けるときとそうでないときとがある。頻度の問題も重要で、度々頼まれるより、千回に一回とかが分かれば、願いを聞いてあげようとも思うもの。

「甘え」というのは文字通り、「甘い想定」。

つまり、私たちは様々なことを実際に起こる前、見たり聞いたりする前に思い描くのだが、その際、「自分以外のものがどのように動くだろうか?」も当然思い描く。「甘い想定」というのは、そのこと。よって、「他者への信頼」とほぼ区別がつかない。

もっと分かりやすく言うと、「もしも自分にとって好ましくないように他者が動くのかもしれない、その可能性の方が高そうだ、と思ったとしても、敢えてそれが起こらない、つまり、自分にとって好ましい方の振る舞いをしてくれることを願う、或はもっとダイレクトに、乞う。」

「甘え」とは一概に悪いものとも言えない。「甘え」ととられるか、「他者への信頼」ととられるか?はさておき、厳然たる結果として変わらないのは、「自分の考え、行動などについて、あまり変更しようとしない」ということ。つまり、前例踏襲、慣習に従う、クセの硬直化などなど。。。前例にも慣習にもクセにもいいところだってあるわけで、これもまた良し悪し。

ただ「甘え」にまつわる否定的なテーストに関してちょっと考えてみてもいいことはあって、それは、「自他の関係性」。あくまでも「自分以外のものの動き(考えや気持ちなども含む)に関する様々な想定」なので、では、より「利他的」であろうと努めるべきなのだろうか?もしもすんなりできるならそれで構わない。ただ、おっきな傾向としてやっぱりより確実に分かるのは「自分自身」。そもそも「自分以外のものがどう動くか?」も基準点になるのは「自分自身にとって都合が良いか悪いか」。ということは、「自分自身にとって良い或は悪いって一体どんな状態??」というのをより詳しく検討してみる価値はありそう。

そこから導かれることの一つ。

あんまりにも’利他’の方がよかろうと「自分自身にとっての良し悪し」を全く度外視する、というのも行き過ぎ。ってゆうか。。。それって実は実在する(抽象的な、想像上のではなく)他者のことも別にちゃんと考えられてないんよね。。。このパターンで現れやすい現象(妄信?):’自分さえ我慢しとけばいいんでしょ?’って。。。なんか却って甘えてる感じ。。。ということでこういう「甘え」もありうる。

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