プラクティスから始めるということ

私としては人々の日常の感覚からスタートしたい。スタートだけでなく、終始そこへ戻れるように注意し続けていたい。

日常の感覚というものは別に表現されるためにあるわけではないのだけれど、現代の世の中は、記述なり表現なりされることをほぼ自動的に求めてくる。

そこからしてプロセスが過たれている。

何故グローバリゼーションなるものが進んでいくのか?

そこにはきっと人間の当たり前の #日常感覚 が作用している。

それは「現代に始まったことではない」というぐらい当たり前のもの。

現代の教育にしても、分析方法、表現方法にしても、どんどんとこの当たり前の感覚から乖離してしまっているように感じる。

何にせよ話始めた途端 #イリュージョン にワープしてしまう(そして戻って来ない)ような感じ。

#ポストモダン とも言われて久しい今日この頃。(特に言語で)表現されたものが #リアリティ を保証なんてするわけない、という見解もよく耳にはする。

私もそうだろなとは思うのだけれど、であるなら私たちの日常感覚なるものは安易に表現してしまわない方がいいのではないか?と考える。それぐらい私たちにとって日常感覚なるものはリアルなものなのだと。

この世は中々うまくいかないことだらけだ。ならば因果関係など分析して少しでも改善への道筋に目星をつけたいと思うのも当然。いやそうすべきともいえる。けれども、因果の分析にせよ、単なる状況の記述にせよ、私たちの日常の感覚から離れなければどうしても不可能だ、というものでもないだろう。

当然、日常の感覚から離れた表現からは”新感覚”が得られやすい。普段は感じたり考えたりしていないことなのだから。それを指して成長や向上への閃き、きっかけだということもできるだろう。でも非日常は非日常。誰もが須らく出遭えるわけもないし、出遭ったからといって現実がその非日常で塗り替えられるはずもない。ごく簡単な理屈。現代に跋扈する分析者たちはこれを忘れてしまっておるようだ。

客観的事実なんてものに直接触れられるのかは分からないけど、合理性は大切だ。私たちのリアルであるところの日常的感覚を大切にするだけでなく、分析していく上でも。

合理性に厳密であるためにもまず「そうあるもの」の存在を認められるよう訓練しなければね。

そこをスキップしてしまうと相当いろんなことが言えちゃうし、それに基づいていろんなこともできてしまう。これはキケンだ。というか。。。もう随分そうなってしまっているのだけれど。。。

「そうあるもの」の代表格は「人間は合理的思考が苦手であるということ」。

これは長い歴史が教えてくれている厳然たる事実だ。

これを「そうあるもの」として認めるということは、克服すべき課題と理解し、日々鍛錬に励むということではない。それは結構先走り過ぎ。別に先走るのを妨げるものではないけれども、そうしたいなら、「我も人なり 彼も人なり」。多少の得手不得手の違いはあろうけれども、合理的思考はみんな基本的に苦手なんだよ、ということは肝に銘じておかなければなるまい。これは単に(分析者側の)自己批判的態度や謙遜とか、人(分析対象)にやさしくとかいうことなのではない。合理的思考そのもの。なぜならば、合理的思考が苦手であることは厳然たる事実なのだから。さらに加えるなら、苦手な何か(合理的思考など)を苦手と認め、克服すべく日々鍛錬し続けられるのか?というと結構上手く出来る場合であっても、人間はもっともっと柔軟な考え方、日々のいなし方ができる生き物。そういうストイシズムの限界にセンシティヴであるということも、いわば合理的な考え方の実践といえるからだ。

と。

ここまで合理性にがんじがらめにされては何も言えなくなってしまうだろう(きっと人間が喋ることを止めるなんてことはないだろうけれど)。

#プラクティス とは私たちの日常で観察される行動。その中でも反復性が高いもの。

そうしたものを見て適当にコメントなんかしちゃうのが人間。会話も弾む。

それでいいというか、これもまた「そうあるもの」として認められるべきもの。

プラクティスが私たちの日常の行動だからといって、別に分類して分析とかしなくてもいい。

プラクティスから始めるに当たって大切なことは、「それは自分よりも他人の目からよく見える」ということを知っておくこと。

なぜこれが大事なのか?というと、私たちにとって合理的思考がどれほど苦手なのかを思い知ることができるから。

より詳しく言えば、「自他」について合理的思考でもって当たることは超ムズカシイよと注意喚起されるということ。

ちょっと思い浮かべれば「そうかも?」と感じられると思うんだけれど、私たちは合理的思考が苦手だけれど、対象が「自分」や「他者」となるともうこれはとんでもなく上手くいかない。

「他人のふり見て我がふり直せ」とも言われる。

難しいんだけれどね。

過度にストイックにもならず、これを他者に強要したりもせず、私たちの日常の感覚からしてふわっと取り込めることを目指しつつ、日常何気なく目にする人々の行動をできるだけ論理的に捉え、分析し、笑い合いたいものだ。

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