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森の生活

鷲田清一の本を読んでいたら、ふいに「ことばの森」という表現に出くわして、しばし唸ってしまった。

しっくりとくるものがある。

僕がふだん本を読んでいるときも、じつは紙の上でことばの森を歩いているような体験をしているのだろう。森に入り、大地を踏みしめながら一歩一歩前に進んでいく最中にも、足裏感覚で森の肌理を確かめている。木々のにおいで生命の濃さ薄さを半意識的に捉えている。森を歩くとは、毛穴をいっぱいに開いて元素の加速度に身をさらすこと。そうして、環境に臨する神経を育て、鍛えること。それは本という森でも変わらないのだと思う。

森は暗い。太陽はすきまからしか入ってこない。僕は昼間本を読めないタチなのだが、なるほど、それは僕にとって読書が森を歩くような体験だったからだろう。今までそうと自覚していなかったが、日中の、陰のない陽光は、あまりに多くのものを照らし出し、漂白してしまうがゆえに、感覚や神経はごっそり麻痺させられてしまう。明るくないと本は読めないが、明るすぎても本は読めない。漢字の「本」という字はその事情をよく表している。読書には木陰くらいの明るさ、あのムラのある木漏れ日がぴったりなのだ。

本はしかし、文明の賜物だ。木の繊維を精製する技術が要るし、大量に複製するには活版印刷の技術がいる。スマホやタブレットで読むにしても、電源や半導体など、基礎的でありながらきわめて繊細な技術に支えられている。

そして、当たり前だが、本はタダでそこに生えているものではない。カネを支払って購入する必要があるのだ。

技術と貨幣経済が盛んなところで、本は流通する。つまりは都市である。読書とは都市の生活様式の一つなのだ。


都市のよいのは夜があることだ。夜がなければ、都市にこれだけ多くの人間は住めない。都市は眠らないのではなく、ひとを眠らせるためにこそ、あれだけ多種多様な照明が活用されている。

都市の人間は暗くなったからといって活動をやめない。寝ない。照明があるからだ。しかも夜は、照明の加減に濃淡というか奥行きがある。読書するとき、夜間の間接的で部分的な照明が、文字をいい感じに際立たせてくれる。ある意味、森の中で歩いているような雰囲気に近づくのだと思う。夜の読書は、都市の人間にとって一種の森林浴なのかもしれない。

ほんらい、昼間に森を歩いて知らず知らずのうちに得ていたであろう生の実感を、夜間に、部屋の仄暗さの中で、読書が擬似的に再現させてやっているのかもしれない。細胞のすみずみにまで新鮮な空気が行き届き、皮膚表面の神経が整う感覚を、私たちはそれと言語化することなく、すでに生活の中で享受しているのだ。


どうでもいい話だが、森といえば、僕はふだん居酒屋など店を予約するとき、実名ではなく「森」と名乗っている。名前が珍しかったり自分の滑舌が悪かったりもあるのだが、森だと聞き間違えもないし書き方も「木が三つ」といえばすぐわかる。ちなみにこの手法は、敬愛するバッキー井上の本を読んでいてうっかり学んだ。

森に助けられてばかりの人生である。


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