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レイアウト:第二話【恋愛小説部門応募/連作短編】

【レイアウト】第二話
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 その部屋に入った途端、美織みおりは味の無いバターを口の中に塗りたくられている様な感覚になった。

 しばらく放置されたままだったキャンバスの側の床に座り、調色している瀬川せがわの後ろ姿はいつになく明るい。同じ部屋に在るはずのその姿が、なんだか酷く遠くにあるような気がした。

「ゲン……?また、描けるの?」
「あっ、みお……実はそうなんだ」
「そっか」
「うん……もう、大丈夫」

 久しく触れられていなかったキャンバスに、絵の具の溜まった平筆の先が触れる。
 美織が口に出せなくなった言葉はまるで溶けない氷みたいに、そのまま喉の奥に詰まっていた。キャンバスに少しずつ増える色とは反対に、その部屋の酸素は色褪せてゆく。

 美織はその「大丈夫」が今までのとは全く意味の違う「大丈夫」だということを知っていた。



 瀬川との会話の中に「古見ふるみさん」がよく登場するようになって、その呼び名は何時しか「凜華りんかさん」になっていた。自分たちとはあまりにタイプの違うその人のことを、最初こそ警戒していたような瀬川だったが、次第にそのことを楽しんでいる様な口調で話すようになる。そしてその後、ついには瀬川と美織の会話の中に「凜華さん」が登場することはなくなった。

 その原因が、瀬川と凜華の接点がなくなった所為ではなく、むしろ別の絆が生まれた証拠であるということに 気付かないわけがなかった。でも、二人ともそれに触れなかった。それが瀬川のためであり、美織自身のためでもあったから。だから、二人揃って見て見ぬふりをする。どちらかが触れてしまえば崩れてしまう。そんな風に危い感情を塗り重ねてしまったばかりに、すっかり脆くなってしまった。

 それでも美織は何時までもどこかで諦めきれずに、瀬川の体温を求めることを止められなかった。少し前、ほんの少しだけ前のあの時のように、また二人は溶け合えるんじゃないかという希望は消えず、美織だけが虚しい夜も積み重なってゆく。

 もう、美織が瀬川の腕の中にすっぽりと包まれていても、その肌が直接触れ合っていても、二人の体温の間には 一枚のビニールが挟まっている様な感覚がしていた。
 瀬川と凜華が既に身体を重ねているかどうかはわからなかった。でも、瀬川の靄がかった体温からは、美織がもうその心の中に居ないことが伝わってくる。

「ゲン……あの絵のことなんだけど……」
「ん?」
「もう、私のために描かなくていいよ。そりゃ、自分の為に絵を描いて貰えるなんて嬉しいけどさ、あの時と今とでは……違うでしょ?」
「どうして急に?そんなこと……?」
「あの夜の絵は、もうゲンの描きたいものじゃなくなってる」

 二人で積み上げた『見ないふり』に美織が触れたその瞬間、透明なバランスが音を立てて崩れ落ちた。驚きと焦りの混じったような瀬川の瞳は見開いて、美織はその目をじっと見つめる。

「なんで……?」
「そりゃわかるよ。私はゲンのもう一つの視点、なんでしょ?」
「そ……っか、そうだよね」
「そうだよ。それに、私だって一応表現者だから……わかる。影響を受ける人が違くなれば、見えるものが変わるってことも」
「どういう意味?」
「ゲン、好きな人いるでしょ?」
「……」
「やっぱり……私はゲンのこと、ちゃんとわかってるよね?」
「……違うよ、みおは何もわかってない。好きな人なんていない。みおのことを愛してる。それに、みおと一緒にいないと、ダメなんだ……」

 ずっと避け続けてきた別れの気配が美織と瀬川のあいだを通り過ぎた。
 それを察した瀬川の鼓動が跳ねる。その夜にやけにうるさく響く心臓の音を、どうにかして止めてしまわなければいけないとさえ思えた。それなのに、美織の視界は寧ろクリアになって、いまさらながら瀬川のことを愛していたと気付く。そんな言葉にしない当然の愛は、美織が今まで思い描いていたものとは違った。だから、二人のそれまでが間違いだったということにも気が付いてしまった。

「そんなことない。ゲンはもう、大丈夫だよ……うん、大丈夫。私とゲンはさ、きっと同じ形をしたパズルのピースなんだよ。重ねれば一つになれるけど、それじゃ、ずっと欠けたまんまで足りないの。だから、いつまでもそのパズルは完成しない。嵌らない。合わない……だから、それぞれにちゃんと合うピースを見つけなきゃいけなかったのに」
「なんで……」
「あとね、私たちって二人とも、自分が唯一無二の存在だってことに自信が持ててない。そんな風なのに、創作なんてしているから余計……自分の感性に自信が持てない。だから、そっくりで、もう一人の自分みたいな存在が側に居ると安心するの。安心して、慰め合って、自分のことを認めてあげられない代わりに、私はゲンに、ゲンは私に、依存する。そうやってずっと同じ場所で重なったまま、思いやるふりをして自分のことを守って、いつまでも完成しないパズルを眺めてる」
「もし、もしそうだったとしても、それのどこがいけないの?」
「私たちがいくら一緒に居ても、もう、何も生まれないってことだよ?そんなのは愛じゃない。それに、いま動けてないのは私だけで、ゲンはもう大丈夫だから。自分以外の中からちゃんと見つけられたんだと思う。だから、また描けるようになったし、描きたいものも変わった。大丈夫、自然な事だし、良いことだから……」
「違う。大丈夫なんだ……みおを想う気持ちも、自分自身だって、何も変わってなんかいないよ!」
「もうやめて。もういいから……大丈夫って……言わないで。だって、ずっと描けてなかったじゃん。でも今、また描けてる。この間にある違いは私じゃない。だから、そんな風に変わっちゃったゲンとは、一緒に居たくない」
「みお……嫌だ」
「自分勝手でごめん」

 その夜はまだ明けようとはせず、色調も失くしたままで更けていた。必要としている場所に必要なものがちゃんと行きわたりさえすれば、きっとみんな幸せになれる。手放すだなんて傲りが美織にあったわけではないが、「まだ繋いでいたかった」と自覚したばかりの手は、もう離してしまうと決めた。

 これからは、自分という枷を外して、自分の愛したもう一人の自分が、あるべき場所へと行けるように。

「さよなら……」

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「いいね、これ。すごい好きだよ。あっ、でも陸人りくとはこっちの方が好きでしょ?」
「うん。さすが、良く分かったね」
「そのままお返しするわ。でも不思議だね、こんなに趣味が合わないのに、陸人と一緒に居るとすごく、なんて言うか……楽なんだ」
「なんでも同じなら上手くいくってわけでもないからな?」
「本当に、そうなんだよね……ありがとう。今日一緒に来てくれて。実はさ、来る寸前に挫けそうになってた」
「やっぱり?」
「うん、まあ……タイミング悪く書けなくなって……ほんと、最悪なタイミングで手が止まっちゃったからだと思う……」
「そっかそっか」
「うん。あのね、私がいくら物語を紡いでも全然おもしろくないの。書けば書くほど、頭の中の映像はどんどんチープになって、どこかで見たことのあるようなありきたりな話になってしまう。それなのに、あれから私と同じだけの時間が進んだはずのゲンは、こんなすごい場所に展示されるような、あの絵をもう描き上げてて」
「悔しい?」
「そうだね……だから、やっぱ嫉妬なのかな?ふふっ、これじゃあ陸人と一緒か?」
「その嫉妬は、凜華りんかさんに対するものなんじゃない?」
「え?違うちがう。正直、もしあの時ゲンが、凜華さんじゃなくて、私を選んでいたとしたら……私たちはきっと二人で潰れてた。そしたら、あんなに凄い作品も、この世界に生まれてこれないままだった」
「じゃあ、その嫉妬は?彼に対するものってこと?」
「たぶん、そう……でも正確には、ゲンの才能に対するものって言うのかな?私たちはよく似ていたから、私にもあんな才能があるような気がしてたんだね、きっと。ははっ、見当違いもいいとこだけどさ、なんで私だけ、まだこっち側にいるんだろう?とかね……」
「なるほどね」
「ん?……ちょっと!」

 何の前触れもなくいきなり陸人に引き寄せられ、美織の身体はその両腕に覆われた。まばらとはいえ他人の目があるこんな場所で、陸人に抱きしめられるという事態は、美織にとって全くの想定外だった。
 陸人は普段から感情表現が豊かだった。その気持ちをすぐに言葉や行動に変換してストレートに美織に伝えてくれる。だけどいつもだったら人一倍他人の目気にする美織を気遣い、こんな風に人目もはばからず抱きついたりなんかしない。だからこの陸人の行動は美織にとって非常に不可解で、あり得ないほど異質であるように感じられて戸惑う。

「陸人っ!離して?こんな場所で……やめてよ……」
「……やだ」
「やだって……子供じゃないんだから」

 美織が陸人の身体を押しのけようとすればするほど、陸人はより強い力で美織のことを抱きしめた。驚きと恥ずかしさで上昇した美織の体温は、陸人の腕の中でその行き場を失って煮詰まり、更に温度を上げてゆく。

「陸人……痛いよ」
「痛くていいんだ」
「えっ?」
「痛くていいんだよ。美織は自分のどこが今も痛いのか、ちゃんと自分で確認して?まだ傷ついたままで痛いなら、痛いって言いながら泣き喚いたっていい。我慢しないで?まだその傷が癒えてなくても、そのままでいいから……」
「陸人?」

 切羽詰まったような声が美織の耳元に落ちる。そんな声色の真意を確かめるために、美織は陸人の耳たぶ越しにその瞳をみていた。

「美織はちゃんと傷ついて、ちゃんと失恋したんだ。でも、どっかでそれをまだ認められてない……美織を見てると、時々そんな風に感じることがあるんだよね……」

 今にも泣きだしそうなのは陸人の方だった。美織の為だけに選びとられ、飾らないまま溢れ出してしまうような、そんな陸人の想いは熱になり、美織の身体に直接伝わる。それによって美織の肩は汗ばんで、自分自身の輪郭がくっきりと浮き出る様な気がした。

「今日ここに来ることを躊躇ってたのは、俺の方だったんだ……さっきは強がってみせたけどさ、少し…いや、けっこう不安だった。もう彼に対しての恋愛感情はなくとも、美織はまだ彼に焦がれてる。それは、きっと二人の恋が特別だったから。もちろん、そんなのは最初から覚悟してたんだけど、上手くいかねえな……まあ、だから、美織は自分の一部分をその過去に置いてきちゃってる気がするし、もし美織自身がそのことを自覚したら、その想いは過去に戻って、また彼の事を……なんて、情けないこと考えてたんだよ」
「……そんなこと、考えてたの?」
「うん。でもね、いま確信した。美織、俺は大丈夫だから。美織は自分のまだ痛い部分をちゃんと探して?もう自分についた傷を見ないふりするのはやめて欲しい……もし、美織が彼のことをまだ好きだったとしても、俺は、それでもいいから……」

 美織の中にその声が浸透すると、暗くて何も見えなかったその場所に光が差す。瀬川に別れを告げた美織は、持て余した気持ちを全部、一纏めにしてそこに隠した。
 今から二年と少し前、瀬川のためを想って外した枷を、美織はすんなりと捨てることができなかった。だからしょうがなく、それを自分自身に架けかえた。それによって美織の中にできた傷は、血肉を抉り、血が出続けてしまう程の重傷で、きっと泣き喚きたいほど痛かったはずだった。
 それなのに美織はその傷の存在自体を無視する。意図的にそれに触れないことで、初めからそんな傷なんて無かったことにしようとしていた。

「……そうだね。ホント、私も強がってただけみたい。だってさ、別れを告げたのは私の方だし、あの時に自分の気持ちも終わったと思ったんだよ……いや、違うか。私は、そう思い込みたかったんだ。きっとあの時はまだ、ゲンの心変わりが悔しくて、ゲンの気持ちを持ってっちゃった凜華さんが憎くて、嫌いで……私じゃなくなったのが、惨めで。だから、この別れはゲンの為だって、それに私も もう好きじゃなくなったって、そう思い込んだし、自分の失恋からも目を逸らした……」

 そんな風に言葉にして口から出すと、流石に少し古傷がひりつく。喉元まで過去が戻ってきて、痛くて思わず泣きそうになる。

 しかし、陸人の想いで溢れた熱に浸されて、美織は「陸人に愛されている」という自信を手にした。その言葉をしっかりと握り締めることで、自分の深層に潜ることができた。だから、ずっと忘れようともがいていた傷が、もう痕だけになっていることを確認できた。
 そこには確かに傷痕がまだ遺っている。でも、陸人の想いを一身に浴びた今ならば、そこに誰が触れたとしても、例え強くつねられたとしても、もう痛みなど感じない。

「陸人の言う通り、私はあの失恋で傷ついてた。今日までずっと、その傷を見ないふりして忘れちゃおうと思ってた。それなのに、たぶん私は無意識にそこをいつも弄ってたんだね。血が止まって瘡蓋ができる度に少しそこを引っ掻いて、忘れたいはずなのに、まるでわざと忘れられなくするみたいに……だから、今はもうその傷はすっかり塞がって、治ってて、本当はもう痛くも痒くもないのに、その痕だけはしっかりと遺っちゃってるのかもしれない。でもね、私には、陸人が居てくれるから、もう大丈夫なんだ」

 瀬川と別れ、喪失感を抱えていた美織の側に寄り添っていてくれたのはどんな時も陸人だった。だから、その腕の中で 過去の失恋のために泣くのはやっぱり違うと思った。

「美織……泣いていいんだよ?」
「ありがとう。でも、本当に大丈夫」

 美織のその言葉はちゃんと本心で、嘘でも強がりでもなかった。しっかりと向き合ってみれば、既に色褪せ始めた想いによって湧き出した涙なんて、必死で堪えるまでもなく、目の前の愛に呆気なく溶けて消えてしまっていたのだから。

「そういうとこ。美織は何時も自分のことを後回しにしてる気がして心配なんだよ。俺から言わせてもらえば、他人なんてどうでもいいから、自分にもっと優しくして欲しい。俺が大好きな美織自身のこと、もっともっと大事にして欲しい」
「ふふっ、なにそれ?」
「ただの愛の告白」
「そっか……ありがと」
「あーあ。ほんとダサいけどさ、美織の中にある彼の痕跡を、俺のちからで消せないって事はわかってた。だから、ここで彼の絵を美織と一緒に見たら、絶対に卑屈になると思ってたし……まあ、実際卑屈になったしね?」

 陸人は美織を強く抱きしめたままそう語ると、自嘲気味に笑っている。美織はその嫌味のない熱気に窒息しそうになりながらも、どうしようもない心地良さにはもう抗うことができなかった。

「でももう、なんでもいいや。どう頑張ったって 俺は美織と同じ景色を見ることはできないんだから、こうして真正面から向き合うしかない。だから……この先もずっと、こうやって美織のことをそのまま丸ごと包むよ。それに、美織は自分のこと全然大事にしてくれないっぽいし、その分俺が 美織のことを大事にすることにした……いいね?」
「……」
「まあ、ヤダっていっても勝手にするけどね?」
「じゃあ、訊かなくてもよかったじゃん」
「いいの。これは俺の宣言だから。それに、言葉にして伝えなきゃ……俺たちは、どう足掻いたって、別々の人間なんだし」
「そっか、そうだよね……あのね、陸人」
「ん?」
「心配しなくても、私はもう過去には戻らないよ?それに、陸人がこうして与えてくれる想いにもちゃんと応えたい。だから、これからは私が私であることにもっと自信を持とうと思う。そんで、ちゃんと自分のことも大事にする。……あっ、でも、陸人にこうやって甘やかされたままでもいいけどなぁ」
「ははっ、素直でよろしい。もちろん、どんな美織になったとしても、大事にさせて頂きますよ?」
「そんな……流石にそこまで想って貰えるほどの人間じゃ……あっ!」
「おっ?気付いた?」
「うん」
「偉いえらい。でも、焦らなくていいよ。ちょっとずつ変わっていく方が長く楽しめるし……」
「ふふっ、なんか、それって」
「なに?」
「……っ、まだ教えない」
「まだ……ね?」
「うん。まだ……」

 美織はそこまで言うと思わせぶりな顔で微笑む。それを見た陸人は、何故だか至極満足そうな顔をしていた。

 過去の失恋に向き合った美織にみえたものは、今ここに確かにある、陸人の揺るぎない愛情だった。差し込んできた西日によって長く伸びた影は定位置を見つけ、それはぴったりと嵌っていて、二人の間の境界線など とっくに溶けてなくなっている。それでもその影は、二人分の輪郭をくっきりと保ったままでいた。

 あの傷痕を遺したままで、美織の心はすっかりと緩み、今はただ穏やかで適温の愛に満たされている。

 それはきっと、これからもずっと……

*******
《続く…》


#創作大賞2023


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