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365日もあれば。


 ちょうど一年前の今日は、ある神社の節分祭にいた。


 当初の予定が頓挫して悲しみに暮れていた私を、いつもとても可愛がってくださっている先輩方が誘って連れ立ってくれ、出向いた節分祭だった。


 寒い中執り行われた節分祭のすべてを憶えているわけではないのだけれど、あの日、ご一緒していたある人に衝撃的なことを言われたことは、今日までに何度も思い出された。


 詳細に記すつもりはないから書かないけれども、要約すると、一年前の私が望んでいた、ないし当たり前に続くと思っていた人間関係や生活が続かないことが示唆された。それも、次の節分(つまり今日)が一つの区切りであることと、今日を境に好転していく、というものだった。


 当時、懊悩する私にとっては朗報だった。しかし同時に狼狽にも襲われることとなった。なぜなら、それは当時の私が思い描いていた未来とは異なるものであったし、変化が大きすぎて、詰まるところビビったからだ。


 で、流れ流れて今どうしているかというと、本当にその通りにほぼなっていて、自分でもよく生きていたなと思い返しては時々ぞっとするくらい、大きな変化を遂げてしまった。


 渦中にいるときは疲労困憊満身創痍、この手の類の四字熟語を息継ぎなしに並べ繋げて4の倍数∞熟語を「寿限無寿限無…」のように唱えられるくらい、心も身体もおかしくなっていたのだけれど、今日、あの日を思い出して、懐かしさがこみあげてくるくらいには落ち着いて、この一年を振り返られる状態になったようで自分自身に安堵するとともに、あの日一緒に過ごしてくださった先輩方に改めて感謝を伝えたくなった。


 365日もあれば、人はこんなにも、違う世界線に辿り着いてしまえる。あの日感じていたことのすべては憶えていなくとも、蒔かれた種は確実にあって、確実に一日一日を繋げる中で知らず知らずのうちに芽が出て、選択に選択を重ねた結果咲く花があり、一年前とは比べ物にならないほどの世界で、いつの間にか生きてしまっている。





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 「明日、死ぬとしたら」




 そんなふうに、よく考える。




 明日、死ぬとしたら、私の亡骸は間もなく葬られ、姿形は何も残らない。少しひんやりとしたこの手が僅かに保つ体温は、温もりとして誰かに伝わることもなくなる。


 365日前の自分が見たら驚くであろう場所にいる今日の私は、自分史上、最高に幸せで、この幸せと今日でサヨナラしなくちゃいけないのだとしたら、私が今日したいこと、できることは、「ただ、感謝すること」だと思った。綺麗事じゃなく。


 「明日、死ぬとしたら」


 私は一回でも多く、あなたに「ありがとう」を言いたい。
 「大好きだよ、また会おうね」と言いたい。
 この瞼が永久に閉じられる時、最後に見ていたいのはあなたの笑顔で、願わくば同じように、「また会おうね」と言ってほしい。


 そんなふうに、思い続けられる一年を過ごそうと思った。365日もあれば、否が応でも何かしら変わってしまう。何事も当たり前ではなく、感謝すればこそ与えられる豊かさがあることも、愛を与えればこそ愛が与えられることも、簡単に忘れてしまえるのが人間だから。






 ただあるがまま、愛で生きれば、きっとまた素晴らしい世界線に出逢える。





 365日もあれば。





 2024.2.3 節分 hana





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