見出し画像

悪魔という名の薬草酒とウインク

ある日、相方が家に帰ってくると「きみが好きそうな本屋を見つけたよ」と言いました。私は本屋に行くことはほとんどありません。なぜなら、現地語で本が読めるほどの言語能力がない私が本屋に行っても、未成年が親に同行してホテルのすてきなラウンジでオレンジジュースを飲みながら退屈するように、化粧品売り場で買い物する女性の後ろをなすすべもなく追随する男性と同じくらい、時間を持て余してしまいます。

私が好きそうな本屋だと言って相方が見せてくれた画像には、店内の奥の窓の横に小さなバーカウンターが見えました。そこにコーヒーやワインがあるのであれば、たとえ売られている本の言葉が読めなくても、私には足を運ぶ十分な理由になります。

この本屋は、うちからスーパーへ行く道の路地に位置するので、途中で立ち寄ってみました。通りに面したウッドデッキのテラス席は、日光を浴びたい人々で賑わっていますが、店の奥はこじんまりとしたカウンター席と小さなテーブル席があり、混んでいなければコーヒーを飲みながら持参した本をのんびり読書しても嫌な顔はされなさそうな雰囲気です。私は人通りの多い場所での日光浴よりも人の少ない静かな場所を好む人間です。

本棚が並ぶ間にワインセラーやピアノがあり、店主は誰が見てもあの人だろうというおじさんが無表情で入り口そばのレジに座っています。

営業時間を調べると20時までとなっており、仕事の後の夕飯までの間(スペインの夕飯は21時)に一杯飲みながらぼんやりするのにも最適そうです。

私が一人で行ったその日は、テーブル席は埋まっていたので、カウンターのスツールに座りました。カウンターの中に立っているのは褐色の肌にタトゥーが描かれ、ヒゲをたくわえ、カジュアルな装いの20代後半か30代前半といった青年。

彼に「ベルムット(食前酒の薬草ワイン)ある?」とスペイン語で声をかけると「いくつかあるけど、どれがいいかな」と言うので、一番甘くないやつ、と私が伝えると、「じゃあ、これがおすすめだよ」と現地語で悪魔という名前がついたベルムットを出してくれました。

「これは地元のベルムットなんだよ。ホリデー?この島は初めて?」と私に英語で質問してくれました。その時、私はこの島に引っ越してきて半年くらい経っていたので「ノー、住んでるんだよ。もうしばらく経つんだけど、あまりお店を知らなくて、ここも最近知ったばかりで」と英語で答え、少し言葉を交わしました。青年は外のテラス席とカウンターを行ったり来たりしながら熱心に働いています。

悪魔の名がついたベルムットは、だらっと甘くなく、少しビターな薬草の風味が私好みだったので、もう一杯お代わりしました。仕事を終えた相方もやってきて、私たちはこれからスーパーに歩いて買い出しに行くのですが、私の2杯目のベルムットがまだグラスになみなみとあったので、相方も同じものを一杯注文して、空いたテーブル席に移動して飲みました。

自宅で黙々と仕事する我々にとって、外の空気を吸い、家以外の場所で会話をするのは貴重な娯楽です。

さあ、そろそろスーパーに行かなきゃと、カウンターの青年のもとへ精算に行くと、会計が2杯分だったので、私がお替りした1杯が入ってないと思い「3杯だよ」と言うと、青年は「わかってるよ」と小声で言い、ウインクしました。

瞬時にことが理解できず、ポカンとする私に、相方が「サービスしてくれてるんだよ」と背後から言い、やっとウインクの意味が理解できた私は「え、いいの?ありがとう!」とお礼を言い、またね、と本屋を出ました。

西洋人の非言語コミュニケーションには、ウインクの出現頻度はスキップより多いように見受けられます。日本人の身振り手振りのリストの中で、片目だけパチリとつむるのは確実に上位項目ではないと私は思うので、ウインクを目にするたび驚いて、意図を読み取ろうと一瞬考えてしまいます。

それからこの本屋には時々、平日の夜や土曜の昼に立ち寄り、例のウインク青年が働いていればあいさつをして、少し話すこともありました。彼はカウンター越しにこぶしを前に突き出してあいさつしてくれるので、私はうっかり出されたこぶしを手のひらで包んでしまいそうになるのを抑えて、グーを出して彼のグーにぶつけます。

その本屋では不定期にピアノや弦楽器のコンサート、トークショーなどが催されます。私たちは知らずに偶然コンサートに遭遇したことがあり、忙しそうに働いていたカウンターの彼が落ち着いた時に、どうやってこのイベントがあるのは知れるの?と話しかけると「店のインスタグラムで告知されてるんだよ」と教えてくれました。

入り口のレジにいる老眼鏡をかけたおじさん店主が、そんな現代的なことをしているとは夢にも思わなかったので、感心しながらインスタグラムを見ていると、バーカウンターの中の青年が「ぼくも音楽やってるんだよ」と彼のインスタグラムを知らせてきました。そこにSpotifyやYoutubeのリンクがあるから、と。

見てみると、鼻ピアスにサングラスでクールな表情の、ウインク青年がいました。彼は、日々、本屋で働きながら、作詞をして、音楽活動をしているラッパーなのです。彼は本名ではないと思いますがニコラスくんという呼び名です。

それからまもなく、この本屋をのぞいてもニコラスくんの姿がないことが続きました。たまたま休みなのかなと思って、また別の日に来てもやはりいない。ニコラスくんの代わりにドリンクを用意している若い女性に聞いてみると、彼はもうここでは働いていないのだと言います。

私たちはニコラスくんのいない本屋に立ち寄ることは減り、小さな街だからそのうちどこかで出会うこともあるかなと思いながらも、彼の姿を見ることはありませんでした。

せっかく英語も通じる楽しい会話相手だったのに残念だなとしょんぼりして、数ヶ月が経った頃、ニコラスくんの発信をインスタグラムで目にしました。私は思わずメッセージを送りました。それまで私は彼とはメッセージのやり取りはしたことはありません。

私はあなたが本屋で働いていたときに時々目にしていたアジア人だ、あの風変わりなカップルだ、覚えているか。私たちはこの島で一番のフレンドリーなバーテンダーを失い、途方に暮れていると。

すると、「もちろん覚えているよ(笑)」と返事があり、「わけあって本屋はやめたんだけど、今はここで働いているよ、地図を送るね、いつでもおいでよ。そうだ、ハナ、残念ながら、あのベルムット(悪魔という名前の)はここには置いてないんだけどね」とニコラスくん。

客の好みを覚えていて、それをサラッと最後に言えるなんて気が利いてる、さすがウインクもするはずだ、と私は感服しながら、ソーシャルメディアありがとう、インターネットに心から感謝した瞬間でした。

私は相方に、ニコラスくんの行方がわかったよ、と吉報を知らせて、翌日いそいそと教えてくれた店に行くとそこはおしゃれなホテルの中で、タトゥーにピアス、タフな風貌の彼が、少しエレガントな制服姿で、カウンターの中にいる姿が見えました。

彼は驚いた顔から笑顔になり、こぶしを突き出し、私もグーをぶつけました。

一度おやつをやると、しっぽを振ってずっとついてくる犬と根本的に私は同じなのです。

▼ 続き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?