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メニューのない店のフレッシュオレンジジュース

近所のカフェのマスターは、いつも省エネモードで働いているように見えます。日本人からしたらたいていの国の飲食店で働いている人の姿は、ゆるいなぁ、適当だなぁ、と感じるものかと思うのですが。

マスターは常に淡々と、決してサービス精神溢れすぎちゃったり、がんばっちゃったりしないのです。無駄に消耗しない、サステイナブルなエネルギーの使い方。たぶん、ご自身で働き方改革済みなのです。知らないけど。

マスターはいつも船長のような黒いキャスケット帽を被っていて、ご本人の風貌にとくだん海の男感はないのですが、ここでは船長と呼んでみます。

このカフェの船長(ややこしい呼び名にしてしまいました)は、低速で安定走行、つねづね落ち着き払い、自分の定位置であるテラスの椅子に座り、タバコをくゆらせています。

私は船長のところに、わけあって、って大したわけはないのだけれど、平日の朝、ちょっとだけ手伝いに行っています。船長と一緒に店に立っていたパートナーが怪我をしてしまい、しばらく店に出れないから、私がボランティアといいますか少し手伝い、朝コーヒーをタダでいただき、船長は現地語(カタルーニャ語)で話すので私の練習相手になり、という互恵の関係です。

船長はいつも静かで落ち着いていて、私の目には燃料節約モードで働いているように見えるのですが、一生懸命に掃除をしたり一生懸命新メニューを考えたりは、しません。

ある時、旅行客らしき外国人カップルがカフェに入ってきて、晴れた日だったので(多くの日は晴れている)中庭のテーブルにつきました。通常は、手前のカウンターで直接注文してもらうのですが、彼らはもう座ってますし、忙しくもなかったので、私は何を注文したいのかききに行きました。

おそらくドイツ人と思われる2人。私はベルリンに5年住んでいたのだからドイツ語で注文が聞けたら、と思うのだけど、学んだドイツ語は、季節の変わり目に衣替えの収納ケースにしっかりギュッと収まり、押入れの天袋の奥深くに追いやられてしまっています。なので、英語で「何か飲みますか?」とききました。

男性の方は「コカコーラにする」と言い、私はノーマルかゼロか確認して、彼はゼロと答え、女性は「フレッシュオレンジジュースはあるか」とききました。私は全てのメニューが頭には入ってませんから、中庭で黙々と作業していた船長のところへ走って行き、フレッシュオレンジジュースある?と尋ねたら、「ない、ボトルのジュースならある」と答えました。それをドイツ人(と思われる)女性客に伝えると、「そう...」と、とても残念そうな顔をしています。

スペインはオレンジの産地ですし、朝食に頼む人も多いですから、だいたいのカフェでその場で搾ってくれるフレッシュオレンジジュースがあります。この女性が期待していた気持ちもわかりますし、今ここで搾ってもらえることを想定していたら、100%果汁だと言われても瓶詰めのフルーツジュースを頼む気持ちになれないのも共感します。

そうだ、京都の龍安寺の枯山水の石庭を見に行こう、と出かけたのに、タクシーの運転手さんに南禅寺に連れて行かれたら、いや、確かにとても素敵な庭だけど、私が見たかったのは龍安寺で...というような気持ちだったのではと推測します。違うかな。南禅寺に失礼か。私の貧困な想像力から出た例えなので深い意味はないんです。ごめんなさい。

女性は何にしようか決めかねていたので、私は彼女に「何があるか見る?」と声をかけて、店内のお客さんが直接ボトルを取れる冷蔵庫の前まで連れて行きました。船長の店には、客が手にとって見れる物理的なメニューはないのです。メニューから選ぶのではなく、客が自ら何が欲しいか申し出るシステムなのです。あるかないかは、言ってみないとわかりません。値段は払うまでわかりません。

冷蔵庫の前でソフトドリンクや瓶ビールなどを眺めた女性は「それならトニックウォーターでいいわ」と言いました。女性は、カウンターの横にあるバスケットにオレンジが山積みになっているのを指差し「これを見たからフレッシュジュースがあるかと思ったのよね」と私にこぼして席に戻りました。

たしかに、彼女のいう通り、オレンジの山がある。私もそうだね、なんでだろうね、と思いながら、船長が「ない」と言ったものはないので、私はグラスに氷を入れて、一つのグラスにはスライスしたレモンを入れて、作業から戻ってきた船長がカップルのもとに運んで行きました。

それから2日後の朝、いつもと同じようにカフェに行くと、カウンターの中で黙々とオレンジを絞っている船長の姿が。一昨日フレッシュオレンジジュースないって、即答してたのに、船長はたくさんのオレンジを半分に切って、ジューサーで搾り、種や皮をゴミ箱に次々と捨てています。電動ジューサーはなく、プラスチックのシンプルな手動のジューサーです。

「オレンジが傷んじゃうからね、飲みな」と搾りたてのオレンジジュースが並々入ったグラスを私に渡します。山積みにあったオレンジがカビかけていたので、船長は一気に消費することにしたようです。このオレンジは、おそらく食前酒やカクテルにスライスして添えるためにあるのですが、使用スピードを傷むスピードが追い越してしまったのでしょう。

私はありがとう、と言って受け取り、笑わずにはいられませんでした。フレッシュオレンジジュースは、やろうと思えばできるけど、船長はやらない方針なのでしょう。手動で搾るのは、負荷が大きすぎるのかもしれません。なんでもやるんじゃなくて、やらない英断により、仕事を最適化しているのかもしれません。

スマホで支払いもできるご時世ですが、船長の店は、カード支払いも受け付けず、断固現金払いのみ。でも客の現金が足らなければ、ツケ払いも許すおおらかな店主です。柔軟性があるような、ないような。

2日前にフレッシュオレンジジュースを飲めなかったドイツ人女性は、きっと滞在中に、ホテルや他のカフェで新鮮な搾りたての果汁をたらふく楽しんだことでしょう。船長が搾らなくても世界は回ります。

傷む寸前のフレッシュオレンジジュースは、鮮やかなだいだい色で、キリッとしたすっぱさはなく、甘く、ゆるい味がしました。

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