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『義』  -始まり-    長編小説


始まり

 年代物の赤ワインが、透き通るほど磨かれたワイングラスに注がれていた。ワイングラスは高層ビルから溢れる光を受け、薄い縁が刃物のように輝く。二つのうち、片方のグラスの縁には、薄い桃色の口づけが付いていた。グラスの間に置かれたキャンドルは、親指くらいの炎を上げ、時の経過を穏やかに奏でつつ、テーブルを挟む若い男女を眺めていた。どこか、覚束ない炎だ。空調が効き過ぎているわけではなく、紺色の蝶ネクタイを着けたウェイターが足早にテーブルの脇を歩き去り、炎を揺らしたからでもない。レストランへ来る気品溢れる客を、幾度となく照らし続けたキャンドルは、その、真意に気が付いていた。そもそも、テーブルに座る若い二人の男女には、敷居が高過ぎる。決して一見さんお断りでは無いが、誰もが入れる牛丼屋とはわけが違う。身の丈を知って欲しい物だ、とうんざりしつつキャンドルは儚い命を焦がす。

 都心に聳える高層ビルのレストラン。このレストランでは、地上からの人工的な眩しい明かりを、夜空からの不可視な星の瞬きを、分厚い窓ガラス越しに眺望出来る。この窓から覗く西新宿の夜景を目にし、何人の男女が、刹那的な愛を、普遍的な言葉を駆使して語り合ったのだろうか。もちろん、誰も知る由がない。

「本当に綺麗な景色だ。東京を独り占めしている気分。遥香の大好きな夜景だよ」

 場違いを感じつつ、大輔は慎重に口を開いた。吐いている言葉がこのレストランに相応しいものかを、随時チェックする。誰かに取り調べをされているように重苦しい作業だが、初めての体験だったため、若干の楽しさを覚えた。

「ええ。素敵ね」

 対面に座る、桃色の口紅を塗った遥香は、卒なく返した。テーブルに肘をつき、掌に可憐な曲線の下顎を乗せ、頬杖をつきながら窓に広がる夜景を眺めた。大輔は遥香の横顔を見つめ、レストランへ来たことを誇りに思い、ワインを一気に飲み干し、音が立たないようにグラスをテーブルへ置いた。遥香のグラスには口付けの数が増え、いつの間にか空になっていた。

 すると、ウェイターが音を立てずに現れて、二人のグラスへワインを注いでゆく。遥香がアイコンタクトをとったのだろうか、と大輔は不思議に思いつつも、注がれるワインの音に耳を傾け、仄かな葡萄の香りに酔いしれてゆく。

 安価なワインばかりを飲んでいる大輔だが、注がれるワインは、どの視点から見ても高貴なワインだと分かる。いや、もしかすると、広がる夜景やウェイターの仕草、食器、内装、僅かに聞こえるジャズの音楽が、安価なワインを高貴なワインへ、すり替えを行なったのかも知れない。レストランの企てによって。考え出すと、泥沼に嵌まりだす。いずれにせよ、そんなことはどちらでも構わない。遥香と来たことで、全てが満たされた。学業の傍らで居酒屋のアルバイトと、イベント設営などの単発のアルバイトを詰めに詰めて、ようやくこの日を迎えたのだ。

「付き合ってから、今日で一年目だ。特別な記念日を、このレストランで遥香と過ごせて、とても嬉しいよ」

「ええ、そうね。ありがとう」

 遥香は大輔の目を見ず、夜景を眺めた。ワインは少し減っていた。

「ねえ、これからの話をしよう。夜景ばかり見ないで、目を見て話がしたい。夜景が好きなことは十分に分かったからさ」

 大輔の促しに、遥香は頬杖を解き、椅子に背中を預けた。艶のある茶色の髪の毛が、片目に被っていたが、払おうとせずに大輔を眺める。凍ったように冷たい目付きだ。

 大地は不思議に思った。遥香は髪の毛が目に掛かることを、毛嫌いした。テニスサークルの練習の際は髪を括ってポニーテールにし、日常はアイロンで毛先を整えて目に掛かりにくいように巻いていた。異性が居なかったら坊主頭にしたい、と言っていたほどだ。しかし、何故か髪の毛を払わない。

「何か、気に障った?」

「特に」

「ワインを沢山飲んだから、酔ったのかな?もし気分が悪かったら帰ろうか?」

「気分は良い。このワインが、美味しいからね」

「俺は安いワインしか飲まないから、こんな高いワインの味なんて、殆ど分からないけれどね」

 大輔は空笑いした。すると、遥香は片目を覆っていた髪の毛を払った。一重瞼の両目が現れ、思い詰めた表情が現れた。

「大輔。私たち、別れない?」

 遥香は冷淡に言い放った。

「え?」

 大輔は聞き返した。

「だから。私たち、別れない?」

 遥香は、悠然と言い放った。その姿は、未来永劫の何もかも見渡せる全知全能の神になり、愚民どもに天啓を言い渡すような、高尚かつ太々しい態度だった。大輔の肉体を櫛比するありとあらゆる細胞が、泣訴し始める。その細胞の声は、つま先から噴水のように噴き上がったようにも、頭頂部から滝のように流れ落ちたようにも思える。

「え?」

 語彙を忘れ、同じ言葉を繰り返してしまった。

「だ・か・ら。あなたと別れたいの」

 遥香は、日本語の発音を幼児へ指導するように、間を開けた口調でゆっくりと繰り返す。すると、置いてけぼりの大輔の思考が、ようやく追いついた。遥香が別れたいと言っているのだ。大輔はワインを一口飲み、過去の振る舞いを振り返る。遥香と出会うずっと以前の出来事から、記憶を遡上させ、窓辺に広がる夜景の明かりの一つ一つに、記憶の挿話を溶け込ませていった。

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花子出版    倉岡


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