見出し画像

『義』  -多磨霊園に眠る-    長編小説


多磨霊園に眠る

 新宿から下り電車に乗り、多磨霊園を目指す。黄色の横線が入る電車の車窓に、小粒の水滴が疎らに張り付き、東京の街をより不鮮明に描き直していた。少ない乗車客の中、大輔は窓の外を眺めながら過ごしていた。

 地下施設での二日目は、静かに明けた。馬乗りで殴られていた吉田は、ジャクソンの腕の関節を取り、苦戦しつつも勝利した。額には複数の切り傷を作り、頬には真っ赤な痣が痛々しく浮かんでいた。大輔が病院へ行くことを勧めたが、吉田は拒み、衣装棚の奥底に眠っていた絆創膏を貼り付け、平静に戻った。絆創膏からは、うっすらと血が滲んでいた。

 試合後、大輔は彼是と質問を投げかけたが、回答はなかった。だが、吉田の口から一言『多磨霊園』の言葉が漏れた。呟くような声だった。独り言のようにも、又大輔に向けた言葉のようにも聞こえる。その言葉の意味を探りに、大輔は多磨霊園を目指していた。

 墓参りをするのは、いつ以来だろうか。親に手を引かれて墓参りした記憶が、随分昔のことのように思えた。他界した祖父のことが無関心で、墓参りを避けていたのだろうか。決して無関心ではないが、人の死に対して思慮しなかったことは事実だ。これは、自分だけではない。毎日墓参りをする人など稀有だ。では、吉田は毎日誰の墓へ参っているのだろう。興味を掻き立てながら、電車の走行に身を任せた。

 コンビニにてビニール傘を買い、霊園の門を潜った。目の前に広がる墓石の群れに驚き、足を止めた。止めざるを得なかった。来るまでの想像では、霊園には数十個の墓石があり、背の高い吉田なら、容易に探し出せるだろうと踏んでいた。しかし、目の前には無数の墓石が東京のビル街の如く精密に並んでいる。想像と現実の差異に落胆する。

 帰宅しようかとも考えたが、欲楽から真逆に位置する霊園が、Tシャツの袖を優しく引っ張っているように感じた。吉田を探せなくとも気分が晴れるだろう、と呑気になり、水溜りを避けながら散歩を始めた。区切られた墓石の間を縫って歩く。小雨の霊園は、人が疎らだった。

 散歩を始めて三十分ほど経った頃、墓石に刻まれた故人の名前を読みながら歩いていると、吉田が立っていた。意図した偶然の再開に、高揚し、吉田に駆け寄った。

 傘を差さない吉田の肩は、雨で濡れていた。角刈りの頭にも、太い眉毛や睫毛にも、水滴が乗っていた。貼っていた絆創膏が、外れかかっている。

「上岡家」

 大輔は刻まれた名前を読み上げた。吉田は両手を合わせて瞼を閉じ、死んでいるかのように固まって動かない。大輔は自分の傘を、吉田の頭上に掲げた。

 上岡家と刻まれているが、吉田の親族なのだろうか。苗字が違うため、親や兄弟ではないだろう。それとも、傾倒する著名人なのだろうか。いずれにせよ、只者ではないだろう。

「吉田さん。勝手に着いてきて、すみません。このお墓は、吉田さんの身内でしょうか?」

 大輔が問い掛けると、吉田の瞼がゆっくりと開いた。

「大輔。これまでに、人の死を経験したことがあるかい?」

 吉田は墓石を凝視している。髪の毛から雨水が滴り、頬に雨筋を作る。

「いえ、身内の死は、祖父の死のみです。祖父の死は幼少期の事ですので、あまり覚えてしません」

「そうか・・・」

 吉田は言葉を残し、大輔に背を向け歩き出した。

「吉田さん。誰の墓をお参りしていたのですか?」

「友だ」

 吉田は言い切った。

「吉田さん。ちょっとお話させて下さい。友って、どなたですか?」

「着いてこい」

 吉田は革靴で水溜りを弾きながら、足を早めた。大輔は吉田を追う。

 墓石脇の周回道路に、雨に濡れて高貴な輝きを放つ黒塗りのセダンが停まっていた。吉田が車の鍵を開け、二人は車内に乗り込んだ。吉田が鞄からタオルを取り出し、一枚を大輔の膝元に置いた。

「ありがとうございます」

 大輔はタオルで水滴を拭きながら、フロントガラス越しに広がる霊園を眺めた。小雨の雫が落葉樹の葉を撫で、フロントガラスを滑らかに叩いていて消える。都会の喧騒から隔離された霊園は、世情を消し去るほどに静かで、狭苦しかった空間は茫漠となった。髪の毛に付いた水滴を拭き終わり、タオルを返そうと吉田を見た。

 吉田は首にタオルを巻き、車のエンジンを掛けた。車は唸るような音を奏で、大輔の身体を細かく揺らし、低速で走り出す。

「吉田さん、これから、どこへ行くのでしょうか?」

「家だ」

「地下施設に向かうのでしょうか?」

 大輔の問いへ、吉田は答えず、ハンドルを握り直した。

 霊園を出て公道を走り出すと、車は一気に加速した。
 
 甲州街道を東へ向かう。好意を寄せる異性とラブソングを流しながら走っているわけではなく、又サークルの合宿へ向かうレンタカーの車内のように心を踊らせながら走っているわけでもない。二人の男が、黒塗りのセダンに乗り、無会話で走っているのだ。異様な光景だろう。すると、信号に引っかかり交差点で止まると、若い男たちが、じろじろと覗いてきた。大輔は男たちの仕草に疑問を持った。男二人のドライブを、揶揄しているのだろうか。しかし、次の交差点でも、別の男たちが同じように覗き込む。大輔は男たちの目を見た。すると、揶揄ではなく、羨望の目差しを車へ向けていた。きっと、吉田の高級車が珍しいのだろう。大輔は、吉田の助手席に座れていることが誇らくなり、真剣な眼差しを作って覗いてくる男たちに答えた。

 西新宿のタワーマンションに着き、二人は上層階を目指す。吉田は地下施設に住んでいるわけではなく、タワーマンションに住んでいた。大輔は付き人のように、一歩ほど開けて後ろを歩いく。

 広く無機質な室内は、地下施設の部屋と酷似し、装飾のない素朴な家具が、丁寧に並んでいる。大輔は吉田に促され、革張りのソファに座った。吉田は浴室に行き、シャワーを浴び始めた。

 大輔が窓の外を眺めると、雲の切れ間から青空が顔を出していた。雨が上がった。遥香と行ったレストランはどのビルだろう、と首を伸ばす。同じようなビルが乱立し、見つけることが出来ない。見つからず、少しホッとした。

 吉田が浴室から戻ってきた。

「何か食べるかい?」

 吉田が問い掛けた。大輔は半日以上固形物を口にしていないことに気付き、空腹感が蘇ってきた。

「はい。頂きます」

 大輔が答えると、吉田は頷き、キッチンへ消えた。

 吉田は既存の具材を調理し、鶏肉の燻製、玄米、サラダ、野菜スープなどをダイニングテーブルに並べ、小皿に取り分けた。二人は料理を囲んで座り、食事を始めた。箸と皿が当たる音が、静かな室内をより静かに塗り替える。

「料理がお上手ですね。すごく美味しいです。」

 吉田の料理は繊細な味付けで、大輔の空腹のお腹を優しく満たしてゆく。吉田は淡々と食事を済ませた。

 大輔は箸を置いた。無言の時間に疲弊したわけではなく、吉田に自分を理解して貰い、今以上に吉田のことを理解したかった。そのためには、食事をしている場合ではない。奥歯に居座っていた野菜の切れ端をしっかりと飲み込み、口を開いた。

「俺の話をしても、宜しいでしょうか?」

 吉田は答えない。大輔は構わずに話を続けた。

「新宿のBARで吉田さんを見つけて以来、俺の世界が反転しました。まるで、大地震によって地軸が動くように・・・。それまでの俺は、何かに没頭するわけでもなく、刹那的な喜びを求めて生活していました。東京生活なんて、大学生活なんて、人生なんてこんなもんだろうと、多少の諦めも・・・。いえ、彼女が居ましたので、彼女へ没頭していました。まあ、冷静に考えますと、メディアの情報に翻弄されていたのでしょう。なんせ、バイト代の殆どを注ぎ込んで、彼女の好きなテーマパークへ行っていましたからね。
 ですが、彼女から振られました。突然の別れでしたが、結果的にはよかったと思います。くすんでいた心が消え、純粋な目で、吉田さんに出会ったわけですから。
 吉田さんの姿は、そこらへんに転がっている人たちと違い、寡黙で美しく、まるで仏のように崇高に見えます。俺は、視力が良いんです。ですので、決して錯覚ではありません。
 この前仰ってました、『生きる意味について』僕なりに、考えてみました。僕は『義』求めて生きようと決めました。いえ、恐らく、心のどこかで既に決めていたと思います。『義』とは、正義の『義』です。大義の『義』です。義侠心の『義』です。
 昨晩、アルバイト先の店長と喧嘩してしまいまして・・・。あの、俺の話を続けても宜しいでしょうか?」

「ああ」

 吉田が箸を止め、口を寸分開いた。吉田の返事を、大輔は嬉しく思う

「面倒見が良い店長なのですが、店長の態度に、アルバイトを始めた当初からずっとモヤモヤしていました。店長は、事あるごとに『キャバクラに行くか?』『風俗行くか?』『最近、彼女とどうなんだ?』などと言ってきます。まあ、田舎から出て来た、右も左も分からない大学生ですので、和まそうとしている気持ちは理解出来ますが、限度を超えています。
 店長は既婚者ですが、アルバイト先の女子大生と寝ています。そして、彼女らを贔屓し、昇給させます。又、来店する女性客を勝手に割引します。他にも、数え切れないほどの話が・・・。店長の思想の背景に、いつも性欲がちらついているのです。いい歳をした大人が、発情期の猿みたいに振舞っている姿にウンザリなのです。
 モテないから嫉妬しているだけだろう、思われるかもしれませんが、それは違います。店長からは『義』が感じられません。『義』がないため、嫌悪するのです。『義』ない大人が嫌いです。店長との喧嘩の最中、俺は『義』の為に生きると言い放ってやりましたよ。でも、店長は笑っていました。そんなのは流行んないとね。それでも、俺は構いません」

 会話の構成が支離滅裂だと分かりつつも、言い終わると、どこかスッキリした。

「君の理解する『義』とは?」

「『義』とは、人として正しい道」

「そうか」

「吉田さん戦う姿には、そこはかとなく『義』を感じます。歩く姿、バーボンを飲む姿、墓参りをする姿、全てに『義』を感じます。きっと吉田さんは、『義』を重んじる人だと思います。如何でしょう?」

「大輔。言葉というものは、社会性という一面性を持っているが、非常に深淵且つ儚いものだ。目の前に並んでいる料理と違い、実態がないからこそ、どうとでもなる。変幻自在であり、人々の解釈も自由だ。君が俺に対し『義』を、感じる感じないについて、指図することはない。しかし、俺は富裕層の賭博に加担し、彼らの娯楽に加担している。資本主義社会で『義』で重んじるのは野暮なことだろう」

「では、何故、吉田さんは戦っているのでしょうか?」

「友のためだ」

「友のため。お墓で眠っていらっしゃる山岡さんのためでしょうか?」

「今日は疲れたから横になる。また機会があったら話そう」

「お疲れのところ、申し訳ありません。またお邪魔しても宜しいでしょうか」

 吉田は軽く頷いた。

 大輔は雨上がりの新宿の街へ、放り出された。寝ていないが倦怠感はなく、頭は寝起きのように冴えていた。吉田の職業、住まい、通っている霊園、地下のリングで戦う理由、見聞きした吉田の姿を組み合わせながら、新宿駅へ足を進める。胸が勝手に高鳴っていった。

 自宅に着き、風呂に入り、寝支度を整えた。ベッドに横になり、携帯電話を眺めると、健斗から連絡が入っていた。

「友・・・」

 大輔は吉田が言った言葉を、刷り込んだ記憶から取り出し、小声で反芻した。自分にとっての友は誰なのだろう。携帯画面に映る、健斗なのだろうか。もし、この瞬間に健斗が他界した場合、吉田と同じように毎日墓参りをするのだろうか。恐らく、しないだろう。疎遠になった幼馴染の男の子を想起する。彼は、どこで何をしているのだろうか。

 健斗からのメッセージを開くと、合コンのお誘いだった。不参加、と返事を返し携帯電話を放り投げ、瞼を閉じた。浅瀬から潮が引くように、すっと眠りに向かった。


続く。


花子出版  倉岡



文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。