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『義』  -東京地下施設で繰り広げられるものとは-    長編小説


東京地下施設で繰り広げられるものとは

 大輔はコツコツと乾いた音を立て、鉄筋の階段を降り続ける。かれこれ、何段降りたか分からない。降っているのは確かだろうが、落莫とした同一の景色が続き、まるで階段を登っているように錯覚してしまう。疲労はなかった。数回ほど、前を歩く吉田へ話を掛けたが、いずれも回答なかった。

 周りには、鉄筋の階段を照らすための小さな豆電球が随所で輝く。見る限り、エレベーターはなかった。一般人から、隠されるように作られた施設。ふと、大輔は居酒屋で女が喋っていた地下施設の話を思い出し、高揚した。地下には、富裕層が望むものが作られているのだろう。

 大輔の二倍ほどある扉が立ちはだかり、長い階段が終わった。扉の横に、青の光を放つ手の指紋を読み取る機器が設置されている。吉田が慣れた手つきで機器に掌を当てると、甲高い機械音が数回鳴り響き、ゆっくりと扉が開いた。

 SF映画のような設備を期待していたが、地下施設の中はシンプルな作りで、大きな廊下が真ん中走り、その両側に扉があった。学舎のようだ。吉田は廊下を進み、大輔も後を追った。

 廊下を五十メートルほど歩き、吉田は足を止めた。施設入り口と同じように、扉横の機器に掌を触れて、部屋の扉を開けた。

 二十畳ほどの部屋には、システムキッチン、冷蔵庫、ソファ、大型テレビなど、独り暮らしを満喫出来るような一室だった。大輔は部屋を見渡す。見た事のあるメーカー品ばかりで、落胆した。契約書の堅苦しい文面にて、見たことのない世界が広がっているのだろう、と過度な妄想を抱いていたのだ。

 吉田は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、飲み出した。

「あのー、ここは、吉田さんが住んでいる部屋でしょうか?」

 大輔の問いに、吉田は答えない。

 吉田は上着を脱ぎ、壁側にある衣装掛けに、上着を掛ける。その後シャツ、ズボン、パンツを脱ぎ、それぞれの皺を伸ばして、掛ける。吉田の裸体が露わになった。大輔は吉田を凝視する。

 吉田の肉体は羊頭狗肉な筋肉は微塵もなく、自然体の伸びやかな筋肉がふんだんなく付き、太い骨格を支えていた。上半身もさることながらが、下半身の筋肉が特徴的だ。太腿四頭筋が大木のように、大きく膨らんでいる。

 大輔はまばたきを忘れ、吉田の肉体を舐めるように見入った。その肉体は、決して崩れ落ちない永遠の美の結晶のように輝き、厳かに屹立していた。大輔は同性に恋をしたことがないが、溢れ出した感情は恋に近い感情なのかも知れない。巷で溢れる刹那的な恋ではなく、輪廻の一説に組み込まれた、決して離れられない恋だ。

 大輔は、何が起きたか分からず、感情の行く末も分からず、吉田の動きを只々一心に眺めていた。

 吉田は隅にある衣装ケースから、無地のパンツを取り出して履いた。無地のパンツは、総合格闘家がリングで身に着けるような、伸縮性のある生地で縫製され、身体に密着している。陰茎が隠れた。吉田は高い天井に向け大きく背伸びをすると、歩き出した。大輔は吉田の歩く先に目を向けると、頑丈な扉があった。

「どこへ行くのですか?」

 大輔は吉田を追いかけた。吉田は足を止め、振り返った。二人の目線が重なる。

「ついてこい」

 吉田は言葉を発し、すぐに歩き出した。吉田の低い声が、大輔の耳に拡声器越しで叫んだように、反響しながら居座った。喋らなかった吉田から言葉を貰ったのだ。これから始まる世界を取り零すことなく記憶に刻もうと決意し、力強く足を進めた。

 頑丈な扉を開け、二人は廊下の奥へ進む。吉田の素足の足裏が、廊下に敷かれた大理石を叩いている。すると、廊下の奥で騒ついた人の声が聞こえてきた。大輔は耳を傾ける。騒つく声は、ライブハウスで鳴り響くような頓狂な声ではなく、気品溢れる声だった。

 廊下を抜けると拓けた空間が広がっていた。霞んで見えるほどの高い天井から吊るされる照明が、空間を明るく照らす。床は廊下と同じ大理石が敷き詰められ、鏡のように磨き上げられている。中央には格闘技用のリングがあり、リングを囲み黒光りする革張りのソファが置かれている。男はスーツを、女はドレスを着て、ソファに座りワインを飲んでいる。富裕層だろう。身につけている宝石の類が、高貴な光を彼方此方に放っていた。

 吉田はリングへ向かう。

「吉田さん、まさか戦うのですか?」

 大輔は吉田の背中へ問い掛けた。吉田は一度足を止め、何も答えずに歩き出した。仕方なく大輔も後に続く。ソファに座る老夫婦が、歩く二人を眺めながら小声で話をしていた。

「ねえ、あなた。今日は、どちらが勝つと思う? やっぱり、百戦錬磨の吉田ですかねえ」

「どうかな。吉田はこのところ連戦だからね。今日は厳しいかも知れんなあ。相手は、ボクシングのベビー級世界チャンピオンの宮本だっただろう?」

「ええ。宮本よ」

「そうかあ。それなら、今日は宮本に賭けとこうか。その方が、ギャンブルは面白い。まあ、どちらが勝っても負けても構わないがな。大した金額じゃない」

 老夫婦は目を合わせて笑った。

 どうやら、リング上にて格闘技の賭博が行われているらしい。大輔は恐怖を覚え、手足が緊張する。首元に冷気を吹き掛けられたようだった。記憶にある限り、日本の法律上、賭博は違法のはずだ。果たして、地下施設は治外法権なのだろうか。安直な大学生が興味本位で飛び込む場所ではない。ここは、一般人が決して足を踏み入れてはならない世界なのだ。

 大輔は後悔の念に苛まれた。地下施設から抜け出し、友人との会話に加わりたい。合コンで知り合った女と下らない会話に現を抜かし、有限の時間を舐め合うことも良いだろう。ここに居ては命の危機がある。住む世界が乖離し過ぎているのだ。

 しかし、脱出するには、吉田の部屋を通り地上へ出なければならない。吉田に帰りましょうと涙を流して懇願したとしても、相手にされないだろう。彼是思い悩むも、結局のところ吉田の後を追ってゆくしか、進むレールは残されていなかった。

 吉田はリングサイドの陳腐なパイプ椅子に腰掛け、総合格闘技用の指先の開いたグローブをはめた。背骨に棒を入れたように背筋を伸ばし、腕組みをして瞼を閉じた。隣に立つ大輔は、明かりに照らされた吉田の顔を見る。

 吉田の太い眉毛の脇や張った頬上に古傷が、又肘や膝には抜糸の跡が色濃く目立つ。痛ましく思うも、古傷こそが韜晦する美の象徴であると、地下施設に降りてしまった恐怖を凌駕し、吉田の姿に心が奪われた。穢れなき美は存在し得ない。芽生えた美意識が、吉田の肉体によって激しく沸騰する。

 会場が騒つき始めた。感情を煽り立てる音楽はなく、ソファに座る富裕層の目が、待望という音を奏で始める。暫くし、リング上に真っ赤な蝶ネクタイをつけたレフリーが上がった。

「青コーナー 吉田雅彦」

 レフリーが吉田側のリングサイドを指差す。吉田は瞼を開け、立ち上がり、リング上に上がった。

「赤コーナー 宮本隼人」

 対面のコーナーから、低身長だが屈強な体躯の宮本が上がってきた。宮本はリングを周り、ソファに座る観客に頭を下げる。観客からは、疎らな拍手が飛んだ。

 レフリーが吉田と宮本にルールを説明し、二人は各コーナーに分かれた。

 宮本のコーナーは、複数のセコンドが付いていた。対する吉田のコーナーには、大輔が独りで立っている。飲み水が入ったボトルも、汗拭く用のタオルも、試合運びを支持するセコンドの役割を果たせる人間も、何も無い。田舎で育った、大学生の大輔だけだ。孤独感がない、と言ったら嘘になるが、吉田の背中を眺めていると、不思議と勇気は湧いてきた。試合には間違いなく勝つだろう。勇気は確信へと変わっていた。

「吉田さん、頑張って下さい」

 大輔はリングサイドから吉田に声を掛けた。

 ゴングが鳴った。天井の見えない暗闇へ、甲高いゴング音は吸い込まれていった。


続く。

花子出版  倉岡



文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。