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『義』  -山岡家にて (後半)- 長編小説



山岡家にて (後半)

「ただいま」

 男の声が響いた。低く滑らかな声色だ。

「あら、主人かしら。大輔くんはこのまま、お座りになっていて下さいね」

 幸子は玄関へ向かった。大輔は姿勢を正し、廊下の奥で聞こえる幸子と男の会話に耳を傾ける。二人の会話には、若い男女に見受けられない、尊重と尊厳の絡み合いが自然と溢れていた。

 幸子と男が戻って来た。幸子の隣に立つ男は、白髪で目尻の垂れた穏やかな表情を浮かべ、贅肉のない身体に弛みのないスーツを着ている。姿勢が正しく、気品と上品が溢れていた。

「こんにちは、大輔くん。ようこそ山岡家へ。妻から君のことを聞いたよ。いらっしゃい」

 男が言った。

「お邪魔しています。斎藤大輔です」

 大輔は立ち上がり、深々と頭を下げた。

「妻のいう通りだ。礼儀正しく、瞳の綺麗な青年だ。申し遅れました、私は山岡修一です。よろしく」

 修一は手を伸ばし、大輔に握手を求めた。握手をする習慣のない大輔は、戸惑いながらも、修一の手を握り握手を交わした。修一の腕には、吉田と同じような時計が光っていた。

「大輔くん、ご一緒に夕飯をお召し上がりになりませんか?」

 幸子が大輔に問い掛ける。

「それは良い。青年がいると、楽しめるだろう」

 修一は、幸子の提案に目を輝かせる。皺のある顔だが、瞳は少年のように澄み切っていた。

「えっと・・・」

 大輔は解答に困惑した。見ず知らずの他人がこんなにも長居しても良いのだろうか。そもそも、Tシャツにジーパンという身なりから場違いな気がしてしまった。

「若い男が遠慮してはいけない。是非食べて行きなさい。帰りは、私が車で送ってあげるから、安心しなさい」

 修一は大輔の背中を軽く叩いた。

「すみません。では、頂きます」

 大輔が頭を下げると、幸子と修一は見つめ合い、笑みを浮かべた。

 日が落ち、三人は先ほどとは別の客間でテーブルを囲んだ。花の装飾が施された皿、透き通ったグラス、鏡のように磨かれたカトラリー、バケットの入った木編みのバスケット、それらが純白のテーブルクロスに上にて規律正しく整列し、頭上のシャンデリアから淡く照らされていた。洋食のマナーに疎い大輔は、テーブルに並ぶナイフやフォークに戸惑っていた。見兼ねた修一が口を開く。
「すまん。すまん。箸の方が食べやすかろう。私らは、海外での生活の長く、ついつい箸の準備を忘れてしまう」

「不慣れなもので、申し訳ありません」

「日本人には箸がお似合いですのよ。私たちも見習わないといけませんわ。ねえ、修一さん。さあ、遠慮なく使って下さいね」

 幸子が大輔の目の前に箸を置いた。大輔が礼を述べると、三人は食事を始めた。

 修一は、大輔へ大学生活の話を問いながら、自身の大学時代との行動様式の相違点、時代の遷移にて起こる歪みのようなものを、料理と共に咀嚼してゆく。決して、忠告や揶揄するとこはなく、寧ろ、楽しんでいた。大輔は、修一の傾聴する態度の奥床しさに、驚いた。富裕層とは、こんな人間なのだろうかと。

 食事を終え、深煎りの珈琲を飲む。

「やあ、有意義だった。是非とも、また食事をしたいなあ」

「ええ。若い人が居ますと、家も活気付きますわね」

 幸子と修一は笑みを浮かべ、大輔を見ている。

「こちらこそ、宜しくお願いします」

 大輔は二人の視線に羞恥し、頬を染めた。もし伺うとなると、次回はどのような用事で赴くのだろうか、との疑念は離れなかった。

 珈琲を飲み終え、幸子にお礼を言い、修一の自動車に乗った。

「さあ、行こうか。大輔くんはどこに住んでいるのかい?」

「住まいは下北沢の方面ですが、新宿で下ろして頂けますか?」

「ああ、構わないよ。新宿で用事があるのかい?」

 修一は車のエンジンをかけた。

「はい。お話したい方が居ます」

「結構、結構。若い時は、老若男女と沢山の人と会う方が良い。歳を取ってゆくと、穴の中に隠れる土竜と同じように、自分の世界に籠ってしまい、声を掛けても中々出てこなくなるからね」

 幸子が窓をノックした。大輔は車の窓を開けた。

「お土産です。ハーブティとクッキー、そして小粒の向日葵。小さい向日葵ですので、コップにでも活けて下さいね。御墓参りのお礼です」

 大輔は紙袋を受け取り、膝の上に置いた。

「お土産まで頂きありがとうございます。御暑いので、お身体にお気をつけ下さい」

 幸子が微笑みを作り、大輔は窓を閉めた。

「じゃあ、行こう。忘れ物はないかな?」

「はい」

 二人の乗る車は、路地を抜け、新宿に向けて走り出した。車内にはクラシック音楽が流れている。大輔は車窓に流れる光を目で追った。明滅しない無数の蛍が飛び交っているようだ。コンクリートだらけの東京にも、夏の足音が聞こえる気がした。


続く。

長編小説です。

花子出版   倉岡


文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。