ボジョレーヌーボー

昨日、朝練習後に合宿所の食堂で朝食をいただいていると、

『ボジョレーヌーボー、初荷が羽田空港に到着しました!』
とテレビの朝のニュース番組が伝えていました。

ボジョレーヌーボーは、フランス・ブルゴーニュ地方のボジョレー地区でその年に収穫したブドウを発酵させたワインのことで、毎年11月の第3木曜日に全世界で解禁となるそうです。

ボジョレーと聞くと、いつも競走部で同級生だった友人を思います。

『なんだよ、これ?2ケースもあるんじゃん!』
合宿所の廊下に無造作に置かれた60-70cm四方のダンポール箱を見て私が聞くと、

『お〜、それはボジョレーヌーボーだよ。うめーんだよ。』

『ボジョレー?なんだ、それ?』

『そんなのも知らねぇーんか、バカ!バカヤロウ!勝彦!』

『そこまで言うか!相変わらず口が悪いなぁー(笑)』

400mを専門にしていた喜田(きだ)君とは、入寮した時に同部屋で、第一印象は、
(不健康そうな奴だな)
初めて会った時は、顔色が悪くて、肌もカサカサして荒れていたからです。(乾燥肌だったらしい)

彼は早稲田実業高校出身で、実家は都内のお寺でした。親しくなってからは、試合のため午前の早い便で出かける時には、櫛部君と泊めてもらったこともありました。(ご両親もフレンドリーな方々でした)

『花田、うめーんだよ、これは。今度飲ませてやるよ。』
そういうと、喜田君は自分のスペースにある小さめの冷蔵庫にワインを入れました。
成人になってからビールがメインだった私にとって、ワインのウンチクを語る喜田君は、カッコよく感じたものです。

学生時代の思い出を語り出すと長くなってしまいますので省きますが、よく彼の部屋の個人スペースに行って話しましたし、一緒にゲームしたり(私は持っていなかったので)、飲みに行ったりもして、種目は違いましたが仲は良かったです。

卒業後も、最初のうちはたまに会うこともありましたが、彼は仕事で、私は練習や試合で忙しく、そのうちに競走部のOB会や誰かの披露宴で会うくらいになってしまいました。

それは私が引退して、上武大の監督になって初めて出場した箱根駅伝予選会を終えた、ちょうど今頃のことでした。

『花田、元気にやってるねぇー…うちに遊びに来ねえーか?美味いワイン飲ませてやるよ。』
と連絡が来ました。

『…そうだなぁ、会いたいし、美味いワインも飲みたいなぁ…でもなかなか予定が詰まっててね…』

『…おぅ、そうか…実はよぉー、オレ手術して片肺取ったんだよ。』


『すぐに会いに行ってあげな。元気そうにはしてるけど、そんなに長くはないかもしれないよ。』

そんな妻の言葉もあり、私は翌週には喜田君に会いに行きました。

『おぉ!花さん!久しぶりだなー!おら!飲め!バカヤロウ!』

『おまえ、相変わらず口悪いな(笑)』
そんな会話をしながら、楽しい時間を過ごしました。

『花田、この前、箱根予選会をテレビで見たけど、お前頑張ってるなぁ〜!オレは感動したよ。』
当時の箱根駅伝予選会は録画放送で、番組の中で私が上武大学駅伝部監督となり、箱根駅伝予選会に初挑戦するまでの歩みも特集されていました。

『オレはよぉー、片肺とっちっまったから、今は階段の上り降りでも息が上がるよ…もう走れねぇーや。』

『そんな弱気なこと言うなよ…今年の夏合宿で河口湖に行った時に、休みの日に選手たちと駆け足で途中まで富士山に登ったんだよ。軽装で行ったから、見回りの人に山をなめるな!って怒られて、すぐに引き返したけど(笑)…そうだ!今度一緒に富士山登ろうぜ!行ったことないけど、すごくいいらしいぞ!』

『富士山登山か…おぅ、そうだな!じゃあ、それに向けてトレーニングするかな。頑張らないとだな!』

帰り際に、
『花田、富士山登山、絶対行こうな!というか行くぞ!バカヤロウ!』
お酒も入って少し赤い顔で、喜田君は元気な様子で見送ってくれました。


『花田!喜田が死んじまったよー!』

翌年3月、選手勧誘で九州に行っていた私のもとに、競走部の同級生から連絡が来ました。
私は予定を早めてもらって、選手と話をさせてもらうと、航空券を取り直して喜田君のもとへ向かいました。

彼は毒舌でしたが、同期の誰からも愛され、先輩後輩からも可愛がられ慕われる人物でした。
死に顔はあまりにも安らかで、同期の仲間とも、

『あいつ、きっと寝たふりしてるだけだよ!おい、喜田!起きろよ!』
と泣き笑いしながら見送りました。

ボジョレーヌーボーの話を聞くたびに、私はいつも喜田君のことを思い出します。

『花さん、競走部の駅伝監督になったんか!おめー、箱根駅伝で早く優勝しろよ!バカヤロウ!』
と天国でも言っているような気がします。