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早稲田大学競走部駅伝監督になりました

noteを最後に書いたのはいつだったのか…振り返ってみると、この一年で自分自身を取り巻く環境が大きく変化して、日々やるべきことに追われていて、なかなか落ち着いて文章を書く時間がなかったように感じます。
プロフィールだけは変えていて、そのことについて書こうとしたままになっていた文章を補足して、再スタートしたいと思います。

2022年6月、私は早稲田大学競走部の駅伝監督に就任しました。母校で学生たちの指導に携わることになるとは思ってもみなかったので、何かまだ夢でも見ているのではないかと不思議に感じることがあります。
一方で多くの方々から激励の言葉をいただいたり、メディアでもたくさん取り上げていただいたりしたことで、注目度の高さや期待の大きさ、何より責任の重さも感じています。

実は現役時代、シドニー五輪の翌年(2001年)に瀬古さんから、
『引退して母校の指導をやってみないか。』
と言われたことがありました。
自分としては次のアテネ五輪(2004年)も出るつもりでいましたが、瀬古さんの指導者としての目には、すでにピークアウトしており厳しいと映っていたのだと今なら理解できます。
結局、私は現役にこだわり、痛めていた右アキレス腱痛の悪化で五輪代表選考会への出場が断たれた2003年の年末に引退を決意しました。
早稲田大学の方は、先に引退した後輩の渡辺康幸が2002年に駅伝コーチに就任。その後、駅伝監督に昇格すると、箱根駅伝予選会を行き来していた競走部を立て直し、2011年正月の箱根駅伝で総合優勝、大学三大駅伝で三冠を達成しました。

私はというと、引退を決意したものの、次の職がなかなか決まりませんでした。そんな時に、当時開設していた自身のホームページ宛に、上武大学陸上部のマネージャーから指導依頼のメールが来ました。それがきっかけで、2004年4月に上武大学で創設された駅伝部の監督に就任することになりました。
上武大学では駅伝部監督として、そして教員(准教授)として学生の指導に携わりました。この話をし始めると、大変長くなってしまうので別の機会に書きたいと思いますが、32歳まで競技のことばかりやっていた私にとっては、社会人として必要なことを学生とともに学べた有意義な12年間でした。
2016年3月に上武大学を退職後、今度はGMOインターネットグループ監督して6年間、実業団選手の指導に携わりました。日本代表を目指すトップレベルの選手たちとともに世界を目指して、嬉しい瞬間もたくさんありましたが、うまくいかなかったこともたくさんありました。実業団は指導者も選手も競技成績を上げることが仕事であり、その大変さをあらためて感じた6年間でした。

上武大学、GMOと18年間指導者をやってきて、自分自身、やや疲弊していると感じて2022年4月にGMO監督を退任、退職しました。
そんな時にまた瀬古さんから、
『母校がいま大変な状態にある。OBとして一緒にグラウンドに行ってみないか?』
と声をかけていただきました。
瀬古さんと訪れた所沢グラウンドは、新しくなっているところもありましたが、競走部の雰囲気は当時と変わっておらず、故郷に帰ってきたような安心感があり、胸を打たれました。一方で平日は指導者が不在の状況で、選手たちは指導に飢えており、不安と救いを求めるような雰囲気も感じました。
『ああ、私のこの18年間はこのためにあったのかもしれない。私にできることがあれば何でもやろう。』
そう感じた私は、週何度か練習を見に行ってアドバイスをするようになりました。
その後、競走部から推薦していただいて『専任コーチ』という契約で駅伝監督となり、現在に至っています。

久しぶりに書いたので、まとまりのない文章になってしまいました。
早稲田大学競走部についてより多くの方に知ってもらうために、今後も時間がある時に書いてみようと思います。
*写真は早稲田スポーツ新聞からいただいたもので、昨年12/31早大記録会時のものです。隣りの東陸央主務とは箱根駅伝で2日間、監督車から選手たちの走りを見守りました。