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安住の地を求めて

 私は結婚して23年になるが、未だ賃貸暮らしである。風来坊で宙ぶらりん。「ここに骨を埋めるぞ!」なんて覚悟もなく、これまで暮らしてきた。

「北海道で暮らしたい!」
「沖縄で暮らしたい!」
 私はそういった夢を持ったことがない。
 旅先で好きになった町はたくさんある。でも、訪ね歩く魅力と、住んで感じる魅力は、やはり異なるものだ。

 どこで、どうやって暮らそうか。
 そういうことを考え始めると、私は途端にしんどくなってしまう。家を買い、マンションを買い、暮らす場所を決めることは、そこから逃れられないような束縛を感じるからだ。
 だが、そう思う一方で、生涯を共にする場所を決めてしまえば、宙ぶらりんな不安定感から脱することができる。この安心感はやはり捨てがたい。

  心、全、穏。

 生活の中に、この3つの「安」があれば、怖いものなどないかもしれない。そのうえ、物価もい場所ならいうことはない。

 それなのに、どこかに定住しようと思い始めると、どうも私は怖気づいてしまうのだ。安心したいにもかかわらず、定住するのは怖い。
 この怖さの正体は一体何なのか。
 考えて行きついたのは「人」に対する恐怖心だった。

 世の中は負の情報で溢れている。
 ご近所トラブル、欠陥住宅、騒音。
 大枚はたいて家やマンションを買い、そんなトラブルに見舞われたら目も当てられない。都会から離れて、空気の美味しい土地に移住しても、そこにいる人や習慣に馴染めなかったら、空気の美味しさなんて感じなくなってしまうだろう。

 私たち夫婦が賃貸暮らしを続けてきたのは、何かあれば「逃げられる」いざとなったら「我慢しなくていい」そういう身軽さを、無意識に優先したからではないかと思う。

 定住する安心と、身軽でいる安心は、両立しにくい。

 だが、どちらの安心を求めたところで、結局はそれぞれの不安と向き合うことになる気がする。どっちにしても悩むなら、定住する安心感に賭けてみたい。

 私は安住の地を求めて、住宅情報のサイトを覗いてみることにした。

 しかし、全くワクワクしないのである。
 場所は東京か埼玉県内。駅から徒歩10分以内で近くにスーパーマーケットがあり、交通の便もいい。新築なら嬉しいけれど、中古ならできるだけ築浅がいい。あと、近くに餃子の満州とサイゼリヤ。あ、そうそう、本屋と文房具屋、できれば100均のお店も欲しい。安くて美味しい惣菜がある肉屋さんなんかもあったらいいな。活気ある商店街とか最高だなぁ。

 そんな条件ばかり追っていると、当然、住まいは目の飛び出るような価格になる。夢と現実を行ったり来たり。仕方なしに条件を下げれば、途端にモヤモヤし、不足感が沸き上がる。まるでネガティブになるために、住宅情報を追っているようだ。 

 こんな調子で、安住の地を見つけられるのだろうか。
 もうこうなったら、日本中をダウジングでもして歩いて、終の棲家を見つけようか。そんなオカルトチックなことまで考え始めてしまう。

 終の棲家を探すことは、結婚相手を探すことにどこか似ている。
 条件を意識する間もなく、出会って即、結婚! という人もいれば、丹念に吟味し、相手を選ぶ人もいる。どちらが良くてどちらが悪いということではない。どちらにも成功と失敗がある。

 私は結婚するとき、条件など見なかった。若かったせいもあるが、若かったくせに、私でいいと言ってくれる人が、今後あらわれると思えなかった。
 これを逃したら次はないぞ! これは運命だ、縁なのだ!
 二十一歳だった私は、そう鼻息を荒くして結婚へと突き進んだ。そして、自分でも驚いてしまうのだが、再来年には何と銀婚式を迎える。時の流れは本当に早い。

 運命に従うにしても、吟味するにしても、結局は「縁」なのだと思う。

 もし、どこでも住めるとしたら、そんな「縁」を感じさせてくれるところに私は住みたい。
 海が見える、山が見える。のどかで景色がいい。
 そういうことではなくて、

 やっぱりここだったんだな。

 と、身も心もストンと腑に落ちるような、心地いい場所で暮らしたい。
 隣にいる夫をチラリと見ながら、私はそんなことを考えている。


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