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44歳のピンポンダッシュ

 私が小学生の頃、男の子たちの間でピンポンダッシュが流行っていた。

 ピンポンダッシュとは、よそのお宅の呼び鈴を鳴らし、家主が、
「はーい」
 と出てくる前にダッシュして逃げるという、迷惑極まりない行為だ。

 時は平成になったばかり。
 カメラ付きのインターホンなど、今のように普及していない。呼び鈴を鳴らしても逃げ切れさえすれば、記録に残ることもなかった。
 しかし、相手は大人だ。どこの小学校に通う悪ガキかは見当がついているので、学校に通報される。そうなると、朝礼などで、ピンポンダッシュをしないよう、全校生徒がまとめて注意されるのだ。

 ピンポンダッシュはおろか、ルールをきっちり守る品行方正な小学生だった私にとって、一部の悪者のせいで朝礼が長引くことが実に不満だった。

 それから長い年月が経ち、平成は終わり、気がつけば令和も五年目。
 当然、インターホンの性能も驚くほど上がり、どこの家のインターホンにも、訪問者をとらえるレンズがキラリと光っている。
 そんな令和の昼下がりのこと。 

 ピンポーン。

 我が家のインターホンが鳴った。
 その音を聞いて、まず思い巡らせるのは通販のたぐいである。
「ふるさと納税で何か頼んだ?」
 夫に訊くと、
「発送の連絡が来てないから、まだだと思う」
 と言っている。
 定期購入している炭酸水は月末の配送だし、他で頼んだ荷物は午前中に届いたばかり。つまり、この「ピンポーン」に、私たち夫婦は全く心当たりがなかったのだ。
 そうなると、途端に不安な気持ちになる。
  宗教? セールス?
 最近では、空き巣などが家主の留守を確認するためにインターホンを鳴らすケースもあるらしい。どちらにせよ、面倒事は御免被りたい。
 そんなことを思いつつ、恐る恐るモニターを確認すると、玄関先には誰もいなかった。

 お化けだぁー!

 と騒ぐには、まだ日が高い。
 よーく目を凝らしてモニターを見てみると、家の前にはお化けではなく、ビニールの手提げ袋に入った何かが置かれていた。一体、何が置いてあるのか見ようとしても、モニター越しでは埒が明かない。

「えぇ…何が置いてあるんだろう…」
 不安の声を上げた私に、夫は言った。
「しばらく出ない方がいいね。部屋から出てくるのを、物陰に隠れて誰かが見ているかもしれない」
 置かれた荷物の確認に来た住人を脅し、そのまま部屋に侵入する強盗の可能性だってある。私たち夫婦は、じっと息をひそめた。

 モニターを見ながら、怪しい人物がいないか、用心深く確認する。
「そろそろ外に出てもいいかな?」
 私が言うと、
「いや、俺が行く」
 夫が男気を見せた。
 匍匐前進ほふくぜんしんをしながら、夫が玄関に向かう。
 身をかがませたまま、ドアノブに手をかけ、そぉーっとドアを開けると、夫はそのまま静かにドアを閉めた。

「な、なんだった?」
 私が訊くと、
「うん、何でもなかった。自分の目で確かめてみるといいよ」
 夫がそう言うので、私もドアを開けて見てみると、そこには宅配ピザ屋の小さな箱があった。たぶんMサイズである。
「えっ? 頼んだっけ?」
 無意識のうちにピザを注文してしまったかと驚いたが、よく見ると宛名が違っていた。
「これ間違いだね」
 そう言って夫婦でうなずき合い、とりあえず強盗じゃなくてよかったと胸を撫で下ろしたものの、ここで新たな問題が起きた。

 誤配されたピザをどうするか問題である。

 賃貸暮らしのせいもあり、マンション内での近所付き合いはない。まさに、隣は何をする人ぞ。そんな住環境のせいで、このピザを注文したご近所さんの顔もわからない。

 しかし、こうしているうちに、温かいピザはどんどん冷めていく。冷えて、チーズの伸びないピザほど悲しいものはない。早々に、注文主であるご近所さんに、これを届けなければならない。
 だが、さっき我が家のインターホンが、 

 ピンポーン。

 と鳴ったということは、私もこれを届けるとき、インターホンを押す必要がある、ということだ。そう思った途端、緊張が走った。

 しかも、よく見てみると、箱に書かれている部屋番号の数字がおかしいのだ。私の住む賃貸マンションは、1階の3号室の場合、103号室と表記されるのだが、箱に書かれていた番号は
「13」
 間のゼロが抜けているのである。
 おそらく、103号室の注文だと予測できるが、商品を誤配してしまうような、うっかりピザ屋である。箱に書かれている数字自体が間違っていた場合、私のピンポンは、ただの迷惑行為になってしまう。

 ここまで品行方正でやってきたのに、44歳にもなってピンポンダッシュで捕まるなんて、考えただけでも恐ろしい。しかし、そんなことを考えている間にも、ピザは確実に冷めていく。

 私は意を決して、ピザ片手に玄関を飛び出し、103号室の部屋の前にそれを置いた。震える指でインターホンを押すと、全速力で我が家に戻った。まさにピンポンダッシュである。

 自宅のドアを静かに閉め、私はドア越しから聞き耳を立てた。すると、103号室方面から
「ガチャ」
 と、ドアの開く音がした。そして何事もなかったように、また
「ガチャ」
 と、音がしてドアが閉まった。

 配達完了である。

 この年になって、まさか全速力でピンポンダッシュをすることになろうとは思いもしなかった。勢いよく走ったせいで息切れが止まらず、私は日頃の運動不足を痛感する羽目になった。

 ピザが届けられるまでに、こんな騒ぎがあったということを、注文した103号室の住人は知る由もない。

 


 
 


 
 

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