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店屋物カムバック!

 店屋物が食べたい。今、今すぐにだ。

 あのマルシン出前機から、
「はい、お待ちどうさま!」
 と、手渡される使い古された木のおぼん。その上に乗せらせた、うどんやそば、親子丼や天丼を受け取るときのあの喜びは、日常における最大の喜びである。

 あの被せられたラップは業務用で、家庭用では考えられないほどの吸着力でもって汁が漏れるのを防いでいる。あの頼もしさ。まさに理想の上司像と重なると言っても過言ではない。

 東京に住んでいた頃、近くに2件ほどのお蕎麦屋さんがあった。私は当時、スーパーで惣菜を買うことにも罪悪感があったので、店屋物を取ることは滅多になかった。しかし年中元気でいられるような健康体でもなかったため、身体がしんどいときに、こうした店屋物に助けてもらったのだ。「今日はもう無理だ」と腹をくくり、夫に店屋物でもいいか聞く。すると、

「えぇ、何にしようかなぁ。何がいいかなぁ♪」

 案外喜んでいる。ウキウキしながらメニュー表を熟読する夫。
 そんな夫を見ながら、私の作る料理にもこれくらい興味を持ってくれればいいのに、と余計なことを考える妻、という構図が、店屋物を取るたびに繰り返されてきた。

 いつもあれこれ考えてメニューを決めようとするのだが、年に一度程度しか頼まないので、頼むのは、いつものあの味になりがちだ。夫はもりそばにカレー。私は中華そばだった。

 そこの中華そばは、いかにもお蕎麦屋さんの中華そばといった風情満載で、メンマ、ネギ、青菜、豚のモモ肉チャーシューが2枚ほど。スープもあっさりとした昔ながらの中華そばだった。そして何と言っても、体調不良で気の沈んだ私の心を癒してくれたのは、斜め切りのナルトである。

 店屋物で汁物の麺類を注文したとき、上にかまぼこやナルトが載っていると、あぁ、店屋物を取ったんだな、という実感が湧いてくる。あのかまぼことナルトに、非日常が潜んでいると私は思っている。熱々の汁から、かまぼこやナルトを救い出したときに感じる

 あぁ、有り難いなぁ~。

 という感覚は、神社仏閣をお参りする際、小鳥の鳴き声がする参道を歩くときに感じる、あの有り難さに通づるものがある。
 ナルトを箸でつまんだときに、訳もなく沸き上がる温かな思いに包まれながら、私は店屋物の中華そばをすするのだ。そうしているうちに、体調不良のせいで抱いていた罪悪感も、汁の温かさに解されながら消えていくのである。

 しかし、埼玉に越してきてからというもの、この店屋物を口にする機会が無くなってしまった。埼玉が、うどん県・香川に見つからないように、こっそりうどんを推していることを、ご存じの方もいらっしゃるだろうが、その割には、店屋物を取れるような店が一軒もないのである。製麺所はある。でも、作って持ってきてはくれない。食事作りを休みたい主婦にとって、埼玉は手厳しい県である。

 まさに今、私は店屋物を頼みたい体調なのだが、お店がない。ピザしかない。ピザも好きだが、私は今、うどん蕎麦屋さんの店屋物が食べたいのだ。諦めきれずネットで検索してみても、そのようなお店は近所にない。

 最近流行のデリバリーも悪くはないのだ。新しいデリバリー様式は、今まで口にできなかったお店の味を気軽に運んでくれる有り難いものである。自転車で颯爽とデリバリーする若者の姿を見ると、頑張ってるんだなぁと頼もしく思う。

 しかし、今、私が求めている頼もしさは、あの丼にビタッと張り付いた、あの業務用ラップの頼もしさなのだ。マルシン出前機を乗せたカブの、ブルンルンル、というエンジン音なのだ。

 私はデリバリーを頼みたいのではない。出前をお願いしたいのだ!


 ○○屋、○○庵、といった風情のお店から運ばれてくる、あのあったかい汁物を頂きたいのである。やや緊張の面持ちで電話して、

「あ、○○庵さんですか?出前お願いしたいんですけれども、ええ、三丁目の○○コーポの301号室です。えーっとですね、もりそばと、カレーと、中華そばをお願いします」

 これを言いたいだけなのだ。それなのに、なぜ、近所に○○屋や○○庵がないのだろう。書いていて悲しくなってくる。私の元に、東京で暮らしていたあの頃のような店屋物が、戻って来てはくれないだろうか。

 店屋物カムバック!


 そう心の底から叫んでみても、かつてお世話になったお蕎麦屋さんは、遠く離れたあの町で、今日も私以外の誰かの食事を運んでいるのである。






お読み頂き、本当に有難うございました!