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ストレスに優しい体質

 ストレスが原因で発疹が出たり、体調が悪くなったりする人がいる。

 私は嫌なことがあると感情を抑え込むことができず、一人で思考の渦に入り込んでしまう。感情を感じ切ろうとするからか、気持ちはつらいが、あまり体調に変化はない。
 だが、ずっと考え込んでいる。銅像のようにまんじりともせず、考え込む様子は、まるでロダンの考える人そのものである。

 私のように考える人になってしまうのも、日常が滞るので面倒ではあるが、身体が先に悲鳴を上げてしまうのも相当厄介だと思う。

 多くの大人は、傷ついたとき、周囲に誰かがいたりすると、その場では出来る限り傷ついた素振りは見せずに我慢する。我慢しているが、どんなに取り繕っても、心の傷には血がにじんでいる。でもその場で「痛い」と言うことは、なかなかできない。大人の悲しい分別である。

 もし、私が傷ついてしまった当事者なら、家に帰宅し、周囲に誰もいなくなった途端、ロダン状態に突入するが、きっと多くの人は、そのまま感情に蓋をし、やり過ごしてしまうのではないだろうか。そうしていかないと、社会的な日常生活が回らなくなってしまう。明日の予定が頭をもたげる。傷ついている場合じゃない。そう思うのもまた、大人の悲しい分別なのだろう。

 心の傷の痛みを「我慢しろ」と言っても、なかなか痛みは止まらない。身体だって痛みがあれば鎮痛剤で対処するのに、心は我慢をさせられる。実に不平等だ。

 ストレスで胃が痛くなったり、発疹が出たりしてしまう人は、自分のストレス耐性のなさに情けなくなったり、自己否定に向いてしまう人もいるかもしれない。

 しかし、言い方を変えれば、ストレスに弱いから体調不良になるのではなく、身体の方が、ストレスを教えてくれている。そう考えることも出来る。症状のあらわれた自分の身体に対処しているうちに、もしやあの出来事が原因かもと、自分の心の傷を再認識することができるし、実は血がにじんでいたことにも気づくことができる。ストレスに弱い身体などではなく、自分の心に優しくできる体質なのではないだろうか。

 確かに、心も体も強靭であることに越したことはない。
 私も、いちいち傷ついてロダンになるよりも、それらを跳ね除けて暮らしていけたら、きっと社会の役にも立てたかもしれない。
 しかし、世の中にはいろいろな人がいる。そしてきっと、そういったいろいろな人がいることで、全体のバランスが保たれているように感じる。誰かと補い合ったり、自分とは違った新しい視点に出会うことができるのは、そういったバランスの中で生きているからなのだと思う。そう考えると、自分が「ダメだ」と思っていることすら、誰かを補えるかもしれないのだ。

 ストレスの多い昨今、気苦労が原因の体調不良に悩む人は多い。
 自分の身体はストレスに弱いのではなく、ストレスを負った心に優しい体質なのだ、と思うだけでも、少し気持ちが楽になれるかもしれない。
 自分に対する「ダメだなぁ」と言う気持ちを、ほんのひとときでも、こんな言い換えで解放してあげてほしい、そんなことを思う木曜の夜である。





 いろいろとストレスの多い昨今ではありますが、
皆様、どうぞご自愛ください。

 

お読み頂き、本当に有難うございました!