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「僕の人生には事件が起きない」を読んで器用な人間への“羨望”と不器用な自分への“愛”を考える。


 岩井勇気さんの『僕の人生には事件が起きない』という本を読んだ。
 岩井さんはハライチというコンビを組まれているお笑い芸人さんである。以前から岩井さんのことは好きだったのだがどうやら初めてのエッセイを出版し、しかも売れているらしいというのをゴッドタンというバラエティで知ったので、さっそくネットで検索してみるとかなりの高評価。すぐにAmazonにて購入をした。

 前書きで岩井さんは「自分はまったく本を読まない」と書いていた。それがちょっと意外だった。なんとなく読んでそう、というイメージがあったからだろうか。するとそんなわたしの心を読んだかのように、岩井さんはその前書きの中で『コンビの陰の方は“っぽい”から、なんとなくこいつは書けそうだと思われている』みたいなことを書いていた。思わず笑ってしまいながらも「そういうのを書くところも“っぽい”けどな」と心の中で突っ込んだ。

 しかし読み進めていくと「本を読んでいない」というのがますます信じられなくなるほど面白く、非常に読みやすい文章で書かれていて最後まですらすらと読めてしまった。ただライトノベルは読んだことはあるらしく、ラノベっぽいっちゃラノベっぽい文章ではあった(ちなみにタイトルもライトノベルのようにしたらしい)。
 内容としては、基本的に一人暮らしをしている岩井さんの日常の小さなエピソードを書いているものが多かった。起こっている内容としては本当に小さなことだったりするのだが、それに対するひねくれた着眼点であったり、おもしろおかしく書いてある文章などが、非常に読んでいて笑えるし、小気味よかった。
 


 その中で、ひとつだけ気になったエピソードがあった。
 それは相方である“澤部さん”について書かれたものである。

 岩井さんは澤部さんについて「澤部には極めてファンが少ない」と書き、そしてその理由をこう述べていた。

 先輩の芸人はよく「澤部は六角形のグラフで言ったら、どこも欠けてない大きく綺麗な六角形だな」と言うのだが、これは褒めているようで褒めていない。裏を返せば、どの分野でも一番ではないということだからだ。
(中略)
 澤部にファンがいなかったり、後輩に憧れていないのは僕が思うに、澤部の返しやリアクション、バラエティでの立ち振る舞いが全てどこかで見たことがあるものだからなのだ。他の芸人がどこかでやっていそうなことで成り立っている。なので「澤部のここがいい!」と思うと、それがもっと上手い誰かが存在するので、結果その人に憧れたりファンになったりするのである。 

 かなり痛烈な意見である。
 「これって澤部さんも読んでるんじゃないのかな?いいのかな?」と勝手にこっちがどきどきしてしまうほど鋭い切り口であるが、どこか頷いてしまう意見でもある。
 たしかに澤部さんはテレビでよく見るし、その番組を盛り上げてくれる明るい芸人なので嫌いなひとはいないだろうけれど、逆にいえば「澤部さんが好き」いうひともそんなにいないような気がする。

 ちなみにこのあともかなりきつめの意見がつづく。

 澤部がこれを読んで自分の“無”に完全に気が付いた時、誰かの価値観でできたその肉体はサラサラサラ~と崩れ落ち、何もなくなるだろう。もともと何もないところに色んな人の価値観を貼り付けてできた化け物だからである。


 だけどそこまで読んで、わたしはここまでぼろくそに書きながらも、「不器用」な岩井さんの「とことん器用」な澤部さんへの隠し切れない“羨望”があるように感じた。


 勿論、岩井さんが書いていることも本音なんだろうとは思う。
 澤部さんは「器用でなんでもできるけど、なにかの一番にはなれない」いゆわゆる『器用貧乏』であり、不器用でも“ひととは違う何か”を求めている岩井さんにとって、「あいつにだけはなりたくない」存在なのだ。
 


 それはわたしがそうだからだ。
 わたしははっきりいうと“器用貧乏”のひとがあまり好きではない。
 好きになる芸人といえば、コミュニケーションが苦手だったりひととの関わりが下手だったりして、いろんなことが不器用だけれども、一つのこと(お笑いのこと)には優れている、そんな芸人さんが大好きなのだ。
 それは自分が『不器用な人間』であることを自覚しているからだ。だから岩井さんがいっていることにも大きく頷いてしまった。


 だけど同時に、わたしたち不器用な人間は、やはり心のどこかで“器用な人間”に憧れているのではないか、と思った。

 たとえば誰かに可愛がられること。
 澤部さんはとにかく先輩に可愛がられるのが得意である、と以前岩井さんがテレビで話しているのを聞いたことがある。大物芸能人や、滅多に後輩を可愛がらないことで有名なさまぁ~ずの大竹さんにも澤部は可愛がられており結婚式にまでよばれたのだという。たしかに澤部さんのようなあかるくてつっこみやすい後輩を先輩としては大いに可愛がるだろう。
 不器用な人間はとにかく「ひとに可愛がられない」。後輩にも慕われないし、「なんかむずかしいこと考えてそう」とだれからも敬遠されがちなのだ。

 不器用な人間はひとに頼ることも苦手だ。
 ひとから好意を持たれるのに、決して優れている必要はない。むしろ頼られた方が好感を持ち、相手に親しみを持ちやすい。そう頭では分かっているのに、ついついひとに頼ることをせず、全部自分で抱え込んでしまう。
 器用な人間はなんでもこなすが、同時にひとに頼ることも得意だ。「すみません~お願いします~」と可愛くひとに頼み込み、その後の「さすが!今度おごりますから!」というフォローもかかさない。そうしてひとの懐に入り込み、いつのまにやらその場の中心はその器用な人間になっている。

 不器用な人間はそうした器用な人間がそつなく世渡りをしているさまを遠くで見ながら、心のどこかで「いいな」と思いながらも、同時に「自分にはああはなれないな」と諦めている。「ああはなりたくないな」とも思っている。

 だが『なれない』というのはけっしてネガティブなことではない。
 むしろ『なれない』というのはすばらしいことである。
 何故ならもし自分がああいして器用な人間になれたとしよう。そうしたら今よりうまく話せるだろう、ひとに会ったあとに自己嫌悪で苦しむこともなくなるだろう、あたらしい環境に無駄に緊張することもなく、あたらしい友達もたくさんできるだろう。休日は予定でいっぱいになり、充実したものになるかもしれない。だけどそれはもう“わたし”ではない。



 やはり根底で『不器用な自分への“愛”』があるのだろう。
 だから努力して「器用な人間になろう」と思っても、二の足を踏んでしまう。
 そうしたら人生楽になるだろうと頭でわかってはいても、それをしてしまうと今の不器用な自分を否定することになり、それができない。

 そうして今日も、器用なひとたちがわきあいあいとしている様子を横目でみながら、不器用な自分をそのものを愛してくれるひとを求めている。




 

 


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