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何のために勉強するのか。

 学校の勉強って、何でするんだろう。
 方程式とか相似とか、メンデルの法則とか元素記号とか、そんな公式覚えていつ使うの?って、私はよく思っていたな。

 そう思い始めたが最後、数学、生物、化学… まるでやる気をなくしてしまって、落ちに落ちた高校生活。

 で、大人になって思う。
 その方程式やらメンデルの法則やらが、日常生活のいつどこで役立つかまで教えてくれない学校の先生が悪いんだ!と。(結局人のせい。)


 ___こないだ沖縄で台風直撃をくらって、3日間の停電、断水、そしてやーぐまい(家に篭ること)の間、「何で勉強するか」について、考えてみた。

1.いかなる知恵も知識も、神の前には無に等しい。

 知恵の初めに、知恵を得よ。
 あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ。
 それを尊べ。そうすれば、それはあなたを高めてくれる。
  __箴言4:7-8

 と、みことばに奮起し、私たちはすべての財産をかけて、知恵と知識を得ようと、もう一度学生時代の教科書を開いたり、新たにビジネスを学んだりしてきた。

 学べば学ぶほど、まだまだ知恵も知識も足りないことに気づく。
世の中にはそれはそれはすごい知者・研究者・成功者がいて、わたしたちの学びなど無に等しいといつも感じた。

 __ が、しかし。

自然の脅威を前にしては、天才学者の知恵も知識も、経験も成功も、神学者の論争も、まるで無に等しい。

 向かいの家の大金持ちでさえ、停電と断水になってしまったら、貧しいわたしたちとまるで等しく不便さの中で生きなければならない。
お金を稼ぐ方法。出世する方法。成功の秘訣。それらを知っていても、神の力がそれを阻めば、お金など稼げない。出世もできない。成功もできない。

 神はすべての人の手を封じ込める。
 神の造った人間が知るために。
  __ヨブ37:5-7

…それならなぜ、神は「知恵と知識を得よ」と言うの?
なぜ、私たちは勉強する必要があるの?

2.知恵と知識はいのちを救う。

 知恵は真珠よりも尊く、
 あなたの望むどんなものも、これとは比べられない。
 その右の手には長寿があり、
 その左の手には富と誉がある。
 その道は楽しい道であり、その通りはみな平安である。
  __箴言3:16-17

 いかなる知恵も知識も、神の前には無に等しいが、知識があるから守れるいのちがある。
 知恵があるから延ばせるいのちがある。


 台風の前日。わたしたちはパキスタンの洪水で今尚被災生活を送る住民の映像を見ていた。
 その被災生活は、わたしたち日本人には絶対に耐えることのできない生活だと思った。
 と同時に、もし「このことを」「あのことを」知っていたら、被災生活を乗り越えて、新しい道に歩み出せるかもしれないのに…と、教育不足が復興を遅らせ、いのちを短くしていることも感じた。


 東日本大震災のときも、わたしたちの「無力さ」は痛感した。だけど、ひとりひとがこれまでに培って来た知恵と知識が、かつて以上に町を復興・発展させている。

 やはり、知恵と知識は、人を守り、豊かにさせる大切なものだ。

3.何を勉強するかが大事。

  わが子よ。すぐれた知性と思慮とをよく見張り、これを失うな。
   __箴言3:21

 とはいえやはり、わたしは大人になった今でも、学校の勉強に意味を見出せない。
 だって、サインコサインタンジェントとか、普段絶対使わないでしょ。
 確率なんて、いつだってyesかnoかの1/2でしょ。

 世界史も、年代覚える意味が全くわからなくて、投げ出したし、

 詩や小説は好きだったけど、「作者の意図を答えなさい」なんて問題が出れば、「そんなの作者じゃないのに知らねえよ」とぶつぶつ言いながらテストに臨む。

 __大学に行くために頭に詰め込んだ知識は、大人になってほとんど使うことはない。

 教科書に載ってたことで私にとって今も役に立っているのは、「お米だけじゃ体は元気になれない」ということと、「8日以内ならクーリングオフという制度がある」ということと、「マルチ商法の勧誘のされ方」と、「心とは脳のこと」ということぐらいかも。(先生ごめんなさい)


 私たちがまず学んで吸収しなければならないのは、「すぐれた知性と思慮」だと思う。

目の前の問題をどう考え、どう整理し、どう判断し、どう行動するか。10代のときからそれを培わないと、たとえどんな難関大学に入ったとしても、自分のいのちも、人のいのちも救うことはできない。

 その数式を使って、人のいのちをどう助けるか。
 過去の偉人が、目の前の問題にどんな判断を下し、行動し、どうなったのか。

 そこまで学ばせてくれる先生に当たったら、幸せだと思う。

4.生きる知恵は教科書の外にもたくさんある。

 …と、散々学校の先生にアンチコメントばかり書いているけど、私は学校の先生が大好きです。

 高校の授業なんて、ほとんど記憶にないのだけど… 授業じゃないときの話はたぶんものすごく覚えている。

 学校の先生にも上下関係があって、理不尽なことばっかりだ。とか、
 教科書に載ってないこと教えたら怒られた。とか、
 文法覚えても喋れなきゃ意味がない。とか、
 学年主任はクラス持たなくていいし大きな責任も取らなくていいから最高のポジションだ。とか、
 学校から家が近いと雑用が多くなる。とか、
 トイレ掃除が上手い人は頼りになる。とか。

 私は先生たちのそういう「教科書外の授業」で、生き延びてこれた部分が多い。
 私にとっては、授業よりも、先に生きた人の道を聞くことのほうが、「すぐれた知性と思慮」だったんだと思う。
(もちろん、授業がいのちを救うのに役立つことだって大いにあるので、自分にとってすぐれたものを見極めてほしい)

結論:何のために勉強するのか

 どんなに勉強しても、どんなに素晴らしい知恵と知識を身につけても、神の力には及ばない。

 だけど、知恵と知識があれば、「いのちを守る」ことができる。
 あなたの知恵と知識で、「人のいのちを救う」ことができる。

 あなたの知恵と知識を尽くして、いのちをつかさどる神を知り、愛することができますように。
 あなたの知恵と知識が、あなたのいのちと、多くの人のいのちを救いますように。

 主を恐れることは知識の初めである。
  __箴言1:7
 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。
  __伝道者の書12:1


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