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#7 ひとのペースに合わせるということ

 専業主夫(主婦)の話になると「家事や育児がどのくらい大変なものか」という話は避けて通れないと思う。家事労働を賃労働に置き換えたら幾らくらいになるかを計算してくれるサイト(主婦の年収シミュレータ)が話題になったこともあった(さきほどアクセスを試みるもすでに削除されている模様…残念)。家事と呼ばれるものにどんなものがあって、どの程度労力がかかっているか、わからないひとには賃労働に置き換えて「幾らくらいもらえるだけの価値がある作業ですよ」と明示することは必要なのでこれはひとつ大事なことでもある。

 例えば料理ひとつとっても「食材の確認」「メニューを考える」「買い出しに行く」などやることはたくさんあるし、場合によっては途中で修正や変更をしながら臨機応変にやっていく必要も出てくるわけだが、これが自分ひとりのためにやっている場合と大きく違ってくるのは、「家族の都合に合わせる」という項目が追加される点で、実はそれが専業主夫(主婦)が大変な理由のけっこうな部分を占めているんではないか、ということを考えてみたい。

 料理の例で書き始めたのでそのままいくと、買い出しに行ってみたら買う予定の食材がなかったりセール品を発見したりでメニュー変更なんてこともあるわけだが、家族がいる場合は給食やお弁当との兼ね合いを考えるだろうし、調理するタイミングも自分が食べたい時間ではなくて、家族が食べる時間に合わせることになる。もちろん、とりあえず調理だけして各自で自分の都合に合わせた時間に食べる完全個食という場合も考えられるが、少なくとも自分の食べたいタイミングではなくて「最初に食べる人」の都合に間に合うように準備しておくことになる。

 その程度のことでしょ?と思うかもしれないし、慣れてしまって簡単にできるというひともいるだろうとは思うけれど、ツイッターなどでも「料理を準備したところで“今日は夕飯要らない”と連絡がきて、もっと早く言ってよ…」的なぼやきを目にすることもある。大したことではなくても、毎日のように自分以外の誰かのペースに合わせて家事をするということは、家族のペースの方に合わせて自分の行動の予定を組むことになり、家族の都合に変更があれば自分の予定も変更を強いられることがあるということ。そして、この誰かのペースに合わせてやっておくことは食事の支度だけではないのだ。

 これはひとによって差があると思うのだけれど、私などは計画を立てたら予定通り行動したいタイプなので急な変更を強いられるとストレスになる。相手の都合に合わせてわざわざカフェなどで時間を潰したのにさらに予定を変更させられたりした日には、不機嫌地獄の釜が開いてしまう。


 さて、前置きがすっかり長くなってしまったが、私とアルさんの生活では、基本的に私のペースで生活をしている。私もさすがに結婚前のようにお気楽に自分の都合だけで生きていないつもりだが(今から思うと、実家で同居してた母には本当にいい迷惑だったと思う)、それでも出勤があることを理由に生活リズムは基本的に私のペースだ。つまり、私は朝起きて出勤して夕方帰宅する。アルさんは体調がひどくなければ起きてお湯を沸かしたり朝ご飯を用意して私を見送り(体調が悪いときはここは省略)、私が仕事に行っている間に洗濯や掃除、買い出しなどをして、夜ご飯の準備をして私の帰宅に合わせて温かいご飯を出してくれる。私の帰宅が早くて夕飯の支度を私がやる場合はその間に洗濯物をとりこんで畳んだり、洗面所やらトイレやらを掃除したりしておいてくれることも多い。夕飯後は洗い物はたいていやってくれるので、私はその間に食後のぼんやりタイムを過ごしたり仕事の準備を進めたりする。ゴミの収集日前はゴミをまとめたりするのも率先して全部やってくれる。そして、寝る2時間前くらいにはお風呂に入って(追い炊きできないので風呂のタイミングも合わせてもらっている)だいたいは同じ時間に就寝する。

 アルさんは本を読んだりニュース(新聞やネット)を読んだりするのが好きで習慣になっているので、その日のニュースをその日のうちにチェックしないとどうにも気分が悪いらしいのだが、たまに私のペースに合わせて家事などをしているうちに満足にニュースを読めないうちに夜遅くなってしまうこともある。たかがその程度?と思ってしまいそうになるけれど、自分も休日に買い出しと副菜の作り置きをして一日が終わってしまえば、自分で好きでやっているにもかかわらず、「なんか他のことができなかった」と寂しくなるわけで、昼も夜も私のペースに合わせた結果、自分の習慣が後回しになっている生活というのが続けば「なんでこんな生活してんだろ?」という気持ちになるのもわかる。

 一緒に暮らし始めてから、ずっと基本的に私のペースで暮らしていることを、私はどこかで当たり前だと思っていて(「だって出勤しなきゃいけないのだから」)アルさんが合わせてくれるのが当たり前だと思っていたところがある。私は、アルさんに対して威張り散らしたり「おーい、お茶!」とか言わないしそれほど抑圧的に振る舞っていない気になっていたのだけれど、自分のペースに相手が合わせてくれて当然だと思っているのって十分傲慢なのでは…?と我が身を振り返る。

 逆に私は他人のペースに合わせて生活できるか?そう考えてみると、そのペースがルーティーン化したものであれば、計画魔な性格も手伝ってわりとうまく計画を立ててやっていけそうな気がするが、予定がころころ変わる相手だったら不機嫌地獄の釜が…。そう考えてみると、アルさんはよく付き合ってくれてるな(偉い!)と思う。

 かつて母が私に話してくれた、私が赤ん坊だった頃の話に「トースト焼いて食べる、みたいなことがなんの中断もされずにできないんだよ。トーストが焼けるタイミングでだいたいオムツ交換しないといけない事態になってさぁ…」というのがある。最近それを思い出して、子育ては予期しないことの連続で「これをしよう」と思ったことがその通りにできないことの繰り返しなのだろうと思った。そして、アルさんの日常も私の勝手なペースに巻き込まれてそんな感じのこともあるのかも…と反省。しかし、反省したところでなかなか改善できないのが困ったものである。

 そして、家事も育児も、ひとつひとつの作業の手間ひまもだけれど、それのために「トースト焼いて食べる」程度のことさえ自分の思うタイミングでできないことのストレスも大きいんじゃないか、と想像する。せめて「トースト焼いて食べる」ことができるように、そしてできれば「好きな本を読む」「趣味の音楽をゆっくり聴く」ことができるように、家族が少しずつ手間ひまの方を分担するのってとても大事なことなんじゃないかと思う。

 思うだけじゃダメだから、少しずつ実行しようと本日さっそく食後の食器洗いをしておいて「これでアルさんの食後の時間が長くなるぞ!」と思っていたのだが、アルさんは食器洗いがない分トースターをぴっかぴかに掃除していたのであった…。

to be continued...


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