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#8 プレッシャーは言い訳になるのか

 一緒に暮らして結婚することに決めたとき、「アルさんがそこにいてくれるだけでいいよ」と私は言った。そのときそう感じたのは本当だし、いまでも基本的にはそう思っているのだけれど、しかし、実際はと言えば、私はアルさんがそこにいるだけではなかなか満足できていない。

 これまでにも書いてきたように「もっとこうしてくれたらいいのに」「もっと分かってくれたらいいのに」と思ってしまいがちだし、なによりもとてもヤキモチ妬きなのでアルさんが自分以外のひとに親切にしていると拗ねてしまったりする。

 別に「彼は冷たいひとだと思われているけど私にだけは優しいの」というギャップ萌えを求めているわけではなく、基本的に親切であるアルさんが好きだし、見返りを求めずに他者に親切にするアルさんを見習いたいと思うことも多いのだが、そういう親切なひとが少ないなか、あまり親切にするとその親切心をいいことに労力を搾取されたり、変に好意を寄せられたりするのではないか…などとついつい不安になる。それに、いつもアルさんと一緒にいたいからこうやって暮らしているのに、なぜお前は他人のために時間と労力を割いているんだ?というヤキモチも沸々と湧き上がってくる。(←ここが異常な自覚はある)

 これって「私が家計を支えてるんだからアルさんは私にもっと尽くすべき、みたいな《誰のおかげで飯が食えると思ってるのか案件》かなぁ?」とアルさんに聞いてみたところ、「オレの家事にダメ出ししてるときはちょっとそれあると思うけど、ヤキモチに関してはやっぱり仕事のストレスじゃない?」と言う。そう言われてみると、「家計を非正規雇用の労働で支えていること」は自分で自覚している以上に私にとってプレッシャーになっているのかもしれない…。

 もし、私が正社員で退職金や年金もしっかりしていて、充分に貯金もできて、将来が安泰だと思えていたなら、きっとこんなにまでカリカリしないんじゃないかという気もする。

 実家で暮らしていたときも、留学していたときも、生活していけなくなるという不安はなかったわけで、自分で稼いだ中から家賃を払い、生活費を払い…という生活をしてみて初めて感じるプレッシャーは思ったより大きいのかもしれない。職場の都合でこちらに何の落ち度もなくても首を切られる非正規雇用の身で家計を支えているひとたちはきっと同じ気持ちだろうと思う。独り身であってもその不安は大きいけれど、自分の配偶者の運命も自分にかかっているのだと思うと不安も倍増する。

 アルさんは「えまさんは仕事が大変なんだから家ではゆっくりしててください」と言って私がゲームをしていたり本を読んでいたりする(要するに趣味の時間を過ごしている)ときに率先して家事をやってくれることも多いし、私は女性であることで世間から「家計を支えて当たり前でそれができないのはダメだ」という目で見られることは基本的にはない。私が専業主婦(女性)と暮らす非正規雇用の男性だった場合、多分、プレッシャーはもっと大きくなるんだろうと想像できる。非正規雇用であることについても「努力が足りない」「男としての自覚が足りない」「仕事を選り好みしている」などと言われることもあるのかもしれない。(余談だが、仕事を選り好みして何が悪い??とも思う。私だって時間とお金をかけて勉強してきたのだからそれが活かせる仕事をしたいと思うし、そう思うことは当たり前ではないだろうか?)

 その一方で、私の場合と男女逆だったら、家計を支える男性が家事をやらなくても当たり前で、家事をすれば「いいダンナさんね」と褒められるし、夫がだらだら趣味に没頭している間に妻が家事をこなしていようが当たり前扱いされるんだろうな、とも思う。同じように非正規雇用で働いて家計を支えていても、世間から受ける評価が違う。うちの場合はアルさんの病気というファクターが加わるので、単純に比較したり一般化したりはできないが、やはり性別役割分業の刷込みの強さは、男女どちらにとってもよいことがないし、どちらかと言えば女性の方をより過小評価する根拠になっている。職業人としても「どうせ女だから」と対等に見られなかったり、そもそも就労の機会が制限されたりする一方で、家庭生活では家事全般に加えて「気遣い」などの感情労働は女性なら生得的に得意なものであるかのように扱われて、やれて当たり前でできないと「女のくせに」という評価になる。

 ふと思いだしたのだけれど、同業者の男性に子供ができたとき、共通の知人から「彼、大変そうだから、えまさんの仕事を少し回してあげられないの?」などと言われたことがあった。当時、私は独身だったが、生涯自分一人の稼ぎで食っていくつもりだったわけで余剰があってもそれは全部将来への備えとして貯金したいに決まっていた。それでも、私が女であることで、その知人は私にそんなことを言ったのだと思う。

「女なら家族を養う必要がないだろう(多少収入が少なくても充分だろう)」

「女ならそのうち結婚して扶養家族(場合によっては専業主婦)になるんだから非常勤でいいだろう」

 大学院に進んでからも、そう思っている男性に嫌というほど会ってきた。親しい友人のなかにもいたし、パートナーとして付き合ったひとからもそういう認識がなかったら口にしないであろうことを言われたことがある。

 女であると同時にひとりの人間である、ということが何故こんなにも難しいことなのか。とため息がでるけれど、ふと我が身を振り返ったときの《誰のおかげで飯が食えると思っているんだ案件》などを考えると、役割がひとの言動や思考に与える影響は馬鹿にできない。男性が、ときには嬉々としてときには嫌々ながら、引き受けている「男らしい」役割も、彼らの思考に大きく影響しているんだろう。とりあえず「男らしさ」「女らしさ」というのは社会的に構築されたものだということを知ることで、少しは思考が自由になるんじゃないかと思うのだが…。

 とは言え、「男らしさ」は「一人前」と同義であるのに対して、「女らしさ」は「一人前の男ではないこと」を指している。同じように「らしく」なった場合、男性は社会的承認を受けるだけだが、女性はある種の排除を受けることにもなる。その非対称性は無視できないし、だからこそ、男性の方が今の社会が是とする「らしさ」を否定することに消極的なのではないだろうか。

to be continued...


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