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「シャツを下げてもらえますか?」

 例によって今日も夕食前に銭湯に行った。
 「すみません」
 いつものように脱衣所で服を脱いでいると、ご年配と思われる女性から突然声をかけられた。
「あっ、はい」
 きっと私が使っているロッカーの下のロッカーを開けたいのだろうと思い、私は1.2歩後ろに後ずさった。しかしその女性からは予想外の言葉が返ってきた。
「見えないから分からないかもしれないけど、シャツを下げてもらえますか?」
「えっ…?」
 最初その人の言っていることがよく分からなかった。
 とりあえず女性が左横に立っているようだったので、思い切って手を伸ばしてみた。すると、女性の裸の状態の背中に触れた。
 一瞬戸惑った。女性とは言え、今まで赤の他人の裸に触れる機会がほとんどなかったので、少し抵抗感があったからだ。
「あの、もうちょっと上の方…」
 女性からそう言われて恐る恐る背中を触りながら指を上の方に動かしていくと、布のような物に触れたのが分かった。
 どうやらこれがシャツのようだった。でもこれをどうしたらいいのか分からない。人にシャツを着せる経験も、これまでほとんどしたことがなかったからだ。
「それを、下に下げて」
 両手の親指でシャツを握ったままあたふたしていると、その人はさらにそう言ってきた。
 そうか、下に下げればいいんだな。
 私は握っていた布をぐっと下に押し下げた。
 するとそれはスルスルと動いていき、裸の背中を覆っていくのが分かった。
「ありがとう」
 それが完全に背中にフィットすると、その人はお礼を言って去っていった。
 そっかー、着替えていて何らかの事情で袖を通したシャツを下に下げることができなかったんだね。この時になってようやく事態を飲み込むことができた。
「ありがとう」
 浴室に入ろうとした時、再びその人からお礼を言われた。
「いえいえ」
 もっと他に何か気の利いた言葉をかけてあげるべきだったかなあと思ったけれど、あまりにも突然すぎることに戸惑っていたせいか、そう返すのがやっとだった。
 誰かのシャツを下げてあげる…。たったそれだけのことだけど、それでもどちらかというと人から助けられることの方が多い私でも、ほんの少しでも誰かを助けることができたのはとても嬉しかった。こうやって少しずつ自分に自信をつけていけばいいんだなあと改めて思った。

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