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レンガ倉庫研究ノート⑥_久しぶりのゼミ

前回の投稿からかなりの時間が開きました。本来ならば研究室のゼミが開かれた週には必ず研究ノートを投稿すると決めていたのですが、研究室と、自分の事情がかみ合わず、2週分もゼミに参加できていませんでした。(ゼミでの発表は2週間に1度。つまり4週間以上、ゼミが無かった。)
スキしてくださってる方々、すみませんでした。

さて、時間が開いてしまったため、書きたいこともたくさんあります。ただまずは、改めての挨拶と2週ぶりのゼミの報告から。

まず、本当に今更なことですが、改めて、県の方針が変わってくれたことが最大のニュースです。


これも、広島で、当事者意識を持って声を上げた多くの方々の努力の賜物です。県外からですが、改めて感謝の気持ちでいっぱいです。安心して研究が進みます。

そしてその研究ですが、上記のニュースに見合う新しい資料の発見が幾つかあったことが、嬉しい報告です。それらについては別稿で徐々に書いていこうと思いますが、ひとまず、直近で行われたゼミについて。

ゼミでは、発表を行わなかった4週間で作りためたデータ・資料を、ここぞとばかりに開放します。作りためていたデータとしては、

・兵器廠倉庫の分類図面
・被服廠倉庫の分類図面
・広島被服支廠の土地利用の変遷図

などがありました。

2週ぶりのゼミです。手持ちの資料はもったいぶらず出し尽くし、現時点での持てる知見のすべてを伝え、指摘を得たいものです。
作戦として、発表の要旨は以下の3点に絞り込みます。

1上記2つの分類図面を用いた現状報告
2新規資料から描いた土地利用の変遷図と、それを元に執筆中の論文の提示
3前回ゼミでの先生からの指摘への応答

まあ、一歩間違えればすべて現状報告にとどまる、もったいない発表になるかものヤツです。わざわざ大勢の時間をいただいて、ゼミの場で共有するほどでもない。
少々緊張しながら(毎度)発表しましたが、先生には無事、3つ目の項目を拾っていただきました。

3、前回のゼミで、先生から頂いた指摘への応答

前回のゼミで、先生からは「「陸軍らしい倉庫」というものが存在するならば、それはどのような特徴があるのか。日本の倉庫史においてどのような位置づけが可能か。そんな全体的な視点から陸軍の倉庫をまとめることができるのならば、おもしろい論文になるのではないか。」という指摘を頂いておりました。

それに対し自分が調べてきたこと、考えてきたことを、あーだこーだと述べます。どうも明快には応えられていない感触。

すると先生から、以下のような趣旨の指摘が。

「倉庫って、一見すると思想やらデザインとは真逆な、機能的な建築物だよね。だけど古代の倉から歴史が始まって、中世の蔵になって、伊勢神宮もそうだけど、倉庫がある種、権力と共に存在してきた面ってあるよね。」

た、たしかに。。。

ここで研究している陸軍の倉庫だって、全長が50間(約90.9m)あり、東京被服廠ではそれらが15棟も整列して並んでいました。広島被服支廠にもかつては14棟の倉庫が並んでいましたし、現存する4棟でけでも、レンガ壁が300m続くその光景は圧巻です。
広大な敷地に、巨大で長大なレンガ倉庫。
当時はもちろん現在でも、帝国陸軍が持っていた巨大な権力と財力を、そして戦争遂行を掲げて邁進する、日本の近代化する国力を感じます。

倉庫は、陸軍にとって、権力を象徴する「建築」な一面があった。

これを論じることができれば、なんて楽しい内容になるでしょうか。

もちろん、そんなウラの思想は、文書や図面として、記録に残っているものではありません。攻略法も思いつきません。ですが、ひとつ視界が開けた実感はあります。今後しばらくは、この視点を念頭に調査が進みそうです。

(20210610)

それでは、しばらくぶりの投稿となりましたが、今回はこのくらいで。
noteを止めたわけでは決してないので、今後もどうぞ、よろしくお願いします。


↓研究ノート1


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