ここにあるもの
また、と思う。
また、なんだよ。
君はいつでもやってくる。
何度でもやってくる。
どうも、わたしのからだと、君は仲良しらしい。
口内炎。
ひとには「ウィークポイントがある」と教えてもらった夜を、忘れない。
わたしの場合は口。あと右手。
唇はすぐに荒れるし、口唇ヘルペスは永遠のカルマとしてお付き合いをしている。
口内炎も、そのひとつ。
特に、ここ数年は膨らむタイプじゃなくて、クレーターみたいな陥没タイプ? これはとにかく痛い。
乾いても染みる。濡れても染みる。もちろん、何かが当たっても染みる。逃げ場ナシ。
はちみつがいいよ、と百回くらい聞いたけど、はちみつはきらい。
あとはしっかり食べて、ビタミンとってよく寝る。
ストレス? どうにかできないからそれはストレスなんだよ。
でも、いまはいったん投げ捨てる。どうせすぐ帰ってくるけど。「投げ捨てるべき」「投げ捨ててもだいじょうぶ」と意識をする。
使い古された魔法みたいな言葉を繰り返して、なんとか日々を過ごしてゆく。
のだけれど、痛いものは痛い。
今回は、下の唇の裏側にできてしまって、歯磨きに困ってしまった。
歯ブラシが当たるととにかく痛いので、毎日下唇を手前に引っ張って、歯と口内炎のあいだにスペースを生み出して、なんとか磨いていた。
一生懸命歯磨きしたつもりだけど、だめだ。どうしても痛い。
たぶんいま、わたしの歯は少し汚い。ちゃんと磨けている気がしない。
それでも歯磨きしないわけにはいかないから、何度も唇を引っ張る。
まぬけ顔のわたし。鏡なんてもう見たくない。
ああ、はやくよくならないかな。
*
ある朝、わたしは下唇を引っ張っていないことに気がついた。
*
あんなに苦しかったのに、永遠みたいだったのに
治ってみると気づかないというか、フェードアウト。
さっきまで確かにあった音は、小さくなって、小さくなって最後には消える。
あれと同じだ。
消えてしまう前のことを、しっかりと覚えているのに。
気がつくとなくなっている。
あんなに痛かったのに。あんなに憎んでいたのに。
気づくと失っている、なんて
なんて、わたしは薄情なのだろう。
*
大切なものは失わないと気づかない、というのはある意味に於いて事実なのだろうけれど
あるものは失ってしまったときに気づかない、というのもあるのだろう。
ときどき、いなくなった口内炎のことを思い出す。
あんなにわたしを苦しめていたのに。
唇を引っ張らずに歯磨きできる日々って最高、なんて思っていたのに。
もう、遠い昔の話になっちゃって
わたしはそうして、いくつのことを忘れていくんだろう。
すべてを覚えていられないし、その必要もないのだけれど。
自分を痛めつけてしまうような感覚に溺れてしまったり、
誰かと比べて首を絞めてしまう夜が訪れたら
ときどき、思い出してあげたいね。
口内炎みたいに、いなくなったもののこと。
解決した、いくつもの問題のこと。
最初は弾けなかったピアノのこと。
生まれて初めて作った曲のこと。
憧れて買ったマグカップのこと。
花を買う暮らしなんてできない、と思っていたわたしのこと。
いま、この部屋とわたしの中にあるもののこと。
ときどき、思い出してあげたいね。
ついでに、いまだけは笑ってあげたいね。
けっこう遠くまで歩いてきちゃった、わたしの未来のこと。
憧れた輝きを放っていなくても。
「なにもない」なんて言って、逃げ出すように泣くことだけは、もうやめなきゃいけないね。
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